仕事なんて生きがいにするな

仕事なんて生きがいにするな(生きる意味を再び考える)を読んだ。

仕事を中心に据えて、精神を病んでしまう人が多いが、私もその一人だと思う。

そんなことになるなら、仕事は中心にしなくて、なんなら、しなくてもいいから、別の生きがいを見つける。

「生きる意味が感じられない」と悩むくらいなら、

心のおもむくままに日常を遊ぶ。

ただひたすら何かと戯れる。それこそが「遊び」の真髄だという。

この真髄こそが、生きる意味ではないだろうか。

 

「心」の向くまま気の向くまま気軽にやってみる。気が向かなければやらない。

「継続」などと堅苦しく考えず、ただ壮大な人生の暇潰しとして「遊ぶ」のです。

 

私達日本人は、勤勉や忍耐を美徳とし、後に備えて貯蓄をすることを良しと考える傾向がことのほか強く、「アリとキリギリス」のアリのように生きるべきだと考える人が、圧倒的なマジョリティであろうと思われます。しかし実際のところアリのように「今を生きること」を犠牲にしてせっせと貯め込んではみたものの、特にこれといった使い道はなく、結局のところ使いきれなかった遺産が、残された者たちの骨肉の相続争いの種になる。

今を楽しまずに、労働に耐えることが正当なで、

「楽しむこと」「心地良いこと」は堕落だとして罪悪感だという信仰により

精神的に追い詰められた人に、しばしば見受けられる「自傷行為」「自殺衝動」の背景には、案外このような信仰の倒錯した価値観が潜んでいると考えられるかもしれない。

 

倒錯した価値観の陰で、芸術家のような存在が、何か不真面目なものであるかのように貶(おとし)められてしまっていることも、問題だと思う。

生きることを謳歌し、美に生きることが「労働」よりも下らないこととして扱われている。それは人間性の大いなる堕落ではないだろうか。

「今を生きること」をないがしろにして、その分何かを貯め込んで将来うまいことやってやろうといった卑しい「頭」の発想は、

われわれの将来が未知であることの不安にうまくつけ込み、金融商品や保険商品等を生み出した。

アウシュビッツ収容所の門に掲げられた標語「働けば自由になる」がいかに虚偽に満ちたものであったかを思い出しほしい。

アリの哲学がいかに吝嗇(りんしょく)で、美に生きるキリギリスを愚弄する卑しい心性によるものかを考えると、

そのようなドグマに騙されて、貴重な「人間らしい生」を犠牲にしてはならないと思う。

 

私達の日々を、倒錯した価値観から開放し、臆すること無く堂々と喜びに満ちたものにして生きること。

それが、「生きる意味」の感じられる人間らしい生なのです。

 

ハングリー・モチベーション」の時代は終わりかけている今。

「人間ならでは」の知恵と文化が必要になっていること、

現代の虚無に押しつぶされないためにも

これから私達は、真に憧れるものを持っていなければ進んで行けないような時代を生きていくことになるでしょう。

 


「遊ぶこと」、「芸術」、「働くこと」の意味について考えてみなければならない。


人が生きる意味を感じられるのは、決して「価値」あることをなすことによってではなく、「心=身体」が様々な「味わい」、喜ぶことによって実現されるのです。

「働くことの哲学」ラース・スヴェンセン

働くなかで、私たちは世界に爪あとを残してゆく――生きてゆくにはなんらかの目的や意味が必要であり、そこに仕事は重要なかかわりを持ってくる。ノルウェーの哲学者が、幸福で満たされた生活を求めるうえで、仕事がどのような位置を占めるのかを探求する。
「仕事は人生の意味そのものを与えてくれるか」「自己実現の神話を信じすぎることで、かえって仕事が災いになってはいないか」「給料の額と幸福感は比例するか」……「仕事とはなにか」という問いに手っ取り早い回答を提示しようとするのではなく、仕事のもつさまざまな側面に光をあて多彩なスナップショットを提示する。

生きがい、意味、人生、実存。この本は暇と退屈に向き合うことを運命付けられた人間存在の諸問題に、〈働くこと〉という実に身近な観点から取り組んでいる。読者はここに、いかに生きるべきかという倫理的問いについての一つのヒントを手にするであろう。──國分功一郎


泉谷閑示『仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える』

働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮が根強い。しかし、それでは人生は充実しないばかりか、長時間労働で心身ともに蝕まれてしまうだけだ。しかも近年「生きる意味が感じられない」と悩む人が増えている。結局、仕事で幸せになれる人は少数なのだ。では、私たちはどう生きればよいのか。ヒントは、心のおもむくままに日常を遊ぶことにあった――。独自の精神療法で数多くの患者を導いてきた精神科医が、仕事中心の人生から脱し、新しい生きがいを見つける道しるべを示した希望の一冊。


電通の過労死自殺をきっかけに、日本の長時間労働がいよいよ問題になっています。とはいえ、働くことこそ生きること、なんでもいいから仕事を探せという風潮は根強く、息苦しさを感じ続けている人も多いのではないでしょうか。本書『仕事なんか生きがいにするな ~生きる意味を再び考える』は、仕事中心の人生から脱し、新たな生きがいを見つけるヒントが詰まった1冊です。

「ハングリー・モチベーション」の終焉

何らかのハングリーな状況に直面すると、人はどうしても、まずはその解決を図ろうとし、それさえ解決すれば幸せになるのではないかと考えてしまうものです。しかし実際のところは、問題が解決されても喜ぶのはほんのつかの間で、すぐさま別の不足が気になってきて、気付けばまたもやハングリーな状態に陥ってしまいます。

このように、初めは幸せになるための手段だったはずのものが、いつの間にか自己目的化して、出口のない欲望の悪循環が生じてしまいます。経済的安定を求めたり、利便性の向上を目指したりしたことも、このような自己目的化のループによって肥大化した結果、今日のような経済至上主義と情報過多の時代が招来されたのだと言えるでしょう。

ところで、人類がハングリー・モードで駆け抜けてきたこれまでの時代を「ハングリー・モチベーションの時代」と名付けるとすれば、「実存的な問い」が近年増えてきているのは、この「ハングリー・モチベーションの時代」が、静かに終焉に向かいつつある兆候なのではないかと考えられるのです。

ハングリー・モチベーションで動いていた人間は、極端な言い方をすれば、「虫」などと同じ行動原理で動いていたようなものだと言えるでしょう。つまり、空腹だからと食糧を求めて動き、危険だからと安全なところに逃げ込む、といったことです。もちろん、これは生き物全般の根本をなす行動原理なので、それが間違っているというわけではありません。しかしながら、絶対的な欠乏から解放されたはずの現代人が、なおもハングリー・モードの悪循環に陥り、貪欲に富や成功を追い求め、情報収集に取り憑かれている今日の姿は、俯瞰的に見れば、きっと滑稽な姿であるに違いありません。

しかし、ここにきて若者を中心に「実存的な問い」を抱えたクライアントが増えてきているという現象は、いつの間にか物質的・経済的な満足がある種の飽和点に達してしまい、それはもはや私たちに「生きる意味」を与えることができなくなってきたことを示しているのではないかと考えられるのです。

ところで、かつて実際にハングリーだった時代に人々は、果たして皆一様に「ハングリー・モチベーション」に突き動かされていたのでしょうか。そんな中で「実存的な問い」に苦悩した人はいなかったのでしょうか。

もちろん、日々の糧を得ることに躍起にならざるを得なかった状況下では、多くの人にとって「実存的な問い」など、かなり縁遠いものであったに違いありません。しかしそんな中でも、今日と同様、実存的な苦悩と向き合っていた人も確かに存在していました。それは、困窮した状況から免れていた一部の恵まれた人々のみならず、たとえ生活は困窮していても、果敢に「実存的な問い」と向き合っていた人もいたのです。

生きる意味を問う夏目漱石の「高等遊民」

例えば、かの夏目漱石もその代表的な人物の一人ですが、彼の小説には、漱石自身の実存的な苦悩を体現したような人物がしばしば登場します。

そのような人々は、当時、総称的に「高等遊民」と呼ばれましたが、これは、日露戦争の前あたりから使われ出した言い方で、旧制中学卒業以上の高等教育を受けながらも一定の職に就いていない人を指す言葉でした。彼らは国家の将来を担うべきエリートとして高等教育を施されたにもかかわらず、卒業しても就職口が飽和していて、なかなか定職に就くことができませんでした。これは当時、深刻な社会問題となっていました。

彼らは、高度な学問を修めたことによって、旧来のムラ的共同体の封建的価値観から脱却し、「近代的自我」に目覚めた人々でした。彼らが実存的な苦悩を抱くようになったのも、この「近代的自我」が導いた必然だったと言えるでしょう。ただし、彼らが「近代的自我」に目覚め、知的に高い存在であったがゆえに、体制側から厄介な存在と見なされてもいたようです。つまり、職に就けない「遊民」である不満が元になり、いつなんどき体制に対して反逆を企てないとも限らない存在として、国家側からは恐れられ、危険視されていた面もあったのです。

そうは言っても、この「高等遊民」の問題は、当時の国民全体から見れば、一部の限られた人たちに生じた、あくまで限定的な問題に過ぎなかったと言えるでしょう。しかし現代においては、多くの人が高等教育を経ているにもかかわらず、就労環境はニート、フリーター、ワーキングプアなどの言葉が次々に生み出されるほど、過酷な状況になっています。つまり、現代の「高等遊民」問題は、もはや昔のように限定的なものに留まってはおらず、社会全体にあまねく認められるほど全般的な問題になってきているのです。

毎年、東日本大震災による死者数をはるかに超える自殺者が出続けているという問題や、どこの職場でも激増しているいわゆる「新型うつ病」の問題を考える際、どうしても、経済や雇用の問題などの社会的な不安要素が原因だとする議論が行われることが多いと思われます。しかし、このような考え方は、あくまで「ハングリー・モチベーション」の価値観を前提にした考え方の域を出ておらず、問題の一面しか捉えることができていません。そこでは「ハングリー・モチベーション」以降の問題、つまり「近代的自我」に目覚めた人間が抱く「実存的な悩み」という重要な側面が、完全に見落とされているのではないかと思われるのです。

「ハングリー・モチベーション」で進むことだけでは済まなくなった現代、つまりこの「人間ならではのモチベーションが求められる時代」に、私たちはいったいどのような価値観を持って、何を指針に生きていくことができるのか。この新しく根源的な問題に、現代の「高等遊民」こそは真っ先に直面している存在なのではないかと考えられるのです。

しかし、「生きる意味」を問うことなんて無駄なことだ、といったシニカルな言説がまことしやかにあちこちで流布されていて、「実存的な苦悩」を抱いている人たちは、ますます困惑させられています。このような言説は、かつて一度は「生きる意味」を問うてはみたけれども、結局それをつかみとることができなかった挫折者によって発せられたものとみてまず間違いないでしょう。「実存的な問い」に挫折した彼らのルサンチマン(妬嫉)は、問うこと自体を「無駄なこと」と切り捨ててしまいたがるのです。

しかし、諦めない限りにおいて、「実存的な問い」には必ずや出口があるものなので、このようなニヒリスティック(虚無的)な言説に惑わされてはならないと思います。幸い私は臨床を通じて、「実存的な苦悩」から抜け出て「生きる意味」をつかむことに成功したクライアントの清々しい姿を、数多く目撃してきました。それは、人間が真に人間らしい在り方に生まれ直すとても感動的な瞬間であり、私はこれを「第二の誕生」と呼んでいます。

社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを眺めることができた時、人には必ずや「実存的な問い」が立ち現れてくるものです。この問いに苦悩することは、他の生き物にはない「人間ならでは」の行為であり、そこにこそ、人間らしい精神の働きが現れているのだと言えるでしょう。


電通の過労死自殺をきっかけに、日本の長時間労働がいよいよ問題になっています。とはいえ、働くことこそ生きること、なんでもいいから仕事を探せという風潮は根強く、息苦しさを感じ続けている人も多いのではないでしょうか。本書『仕事なんか生きがいにするな ~生きる意味を再び考える』は、仕事中心の人生から脱し、新たな生きがいを見つけるヒントが詰まった1冊です。

「何がしたいのかわからない」という悩み ~「楽になりたい」というささやかな夢~

最近様々なメディアで、若い世代の人たちの「何をしたいのかわからない」「特にやりたいこともない」といった発言を耳にします。さらには、小・中学生に将来の夢を尋ねても、中には「楽になりたい」「楽に暮らせればそれでいい」といったものもあるようです。実際、私がクライアントから受ける相談においても、やはりそういった悩みがとても増えてきていることは、間違いありません。

彼らは共通して、「そもそも何が好きで何が嫌いなのか、あまり考えたこともない」と語り、幼少期から親が一方的に用意した習い事や「お受験」に埋め尽くされて、自身の「好き/嫌い」を表明することもできないまま、受動的に育ってきた歴史を持っています。

にもかかわらず、いざ進路や職業を選択する時期になってから、周囲から唐突に「何がしたいのか?」「将来のヴィジョンは?」と尋ねられたとしても、彼らには何も浮かぶものはなく、ただただ困惑してしまうのも当然の成り行きでしょう。

人間は、まず「好き/嫌い」を表明することから、自我の表現を始めるものです。ただし「好き/嫌い」といっても、初めから「好き」が出てくるわけではなくて、「嫌い」、つまり「ノー」を表明することから始まるようになっているのです。

ですから、二~三歳頃の幼児に見られる「イヤイヤ期」というものは、人間の自我の初めての表明なのです。この時期の「イヤイヤ」は、「食べなさい」と言っても「イヤ!」と言い、「じゃあ食べなくていい」と言っても「イヤ!」と言うようなものなので、親の側からすれば実に困った天邪鬼なものに思えます。しかし、これにはきちんとした主張があって、それは、「私に指図しないで!」ということです。

自我というものの自然な表明は、まずはこのように他者からの独立性を確保しなければ、始められません。たとえ相手が自分の養育者であるとしても、自分がその植民地状態にあったのでは、決して自由な意思の表明などできない。そこで、「ノー」という反抗を行うことによって、自分というフィールドを確保する独立運動を行っているわけです。

これが人間の自我の基本をなしています。「何がしたい」とか「何が好き」「将来こうなりたい」といった意思表明は、その後でやっと可能になってくる。そういう順番です。

しかし、「あなたのためよ」という名目の下、親の価値観に縛られて「ノー」を許されない状況で生き抜かなければならない子供たちは、主体性を放棄する以外に生き延びる道がありません。つまり、こうして大切な自我の基本であるはずの「好き/嫌い」というものが封印されてしまうことになります。

このように、自我の芽を摘まれて育ってきた彼らにとっては、精一杯のささやかな希望が「もうこれ以上何かを強制されたくない」という願い、つまり「せめて面倒なことは最小限にして、少しでも楽な人生を送りたい」という形になるのは、必然の結果なのです。

「自分がない」という困惑 ~現代の「うつ」の根本病理~

親や社会から求められることを受動的に遂行して、人生の意味など考えることもなく、ただ日々をこなして生きていくことは、生きている実感には乏しくとも、ある程度までは可能かもしれません。しかし、人間らしさの中核として私たちの中にある「心」は、いつまでもそれを許したり、我慢を続けてくれるわけではありません。

個人差はあるものの、その人の「我慢」のタンクが一杯になった時、「心」は分かち難くつながっている「身体」と協働して、何がしかのシグナルを発してきます。食欲がなくなる、いろいろな物事に興味が持てなくなる、妙に怒りっぽくなる、睡眠が取りにくくなる、仕事で凡ミスが増える、等々。

それでも本人がこのシグナルを無視して過ごしてしまうと、「心=身体」側は、いよいよストライキを決行します。ある日突然、朝起きられなくなったり、会社(もしくは学校)に行けなくなったりする。これが、うつ状態の始まりです。

「うつ病」と呼ばれるものは、近年、診断基準の項目に照らし合わせて行うマニュアル診断が主流になったために、一口に「うつ」といっても、ある程度以上「うつ状態」さえ生じていればその内実は問われないため、そこには様々な病態が含まれます。

このようなマニュアル診断が行われるようになる前に、元来「うつ病」と呼ばれていたもの(俗に「古典的うつ病」と呼ばれる)は、しっかりした薬物療法や入院治療が不可欠であるような重症な病態を指していましたが、近年の「うつ病」は、そんなわけで、必ずしも症状やその要因も一様ではありません。

中でも俗に「新型うつ」と呼ばれることの多い病態は、就労や就学には支障が出るけれども、それ以外のことでは問題なく動けることもあり得るので、周囲の人間だけでなく治療者から、あたかも仮病であるかのような不当な扱いを受けることも珍しくありません。

しかし、これは完全に誤った見方であって、丁寧にクライアントの訴える内容を伺っていくと、そこには「古典的うつ病」とはずいぶん違う性質の苦悩と病理が存在していることがわかってきます。


「自分がない」という困惑 ~現代の「うつ」の根本病理~

新型うつを患っている人は大概、様々な事情により「自我」の芽を摘まれて育ってきた歴史を持っています。それゆえ、人生を順調に進んでいるように見えても、その内実においては「生きるモチベーション」という動力のない、言わばトロッコのような在り方だったのです。

順調に進んでいた時には、本人自身も周囲も、それが問題であるとは思いもしなかったわけですが、レール上の小石のような障害物によって、あっけなく進めなくなってしまいます。つまり、そもそも他動的に押された慣性で走っていたために、「それぐらいの困難は乗り越えるべきものだ」といくら発破をかけられても、そもそも動力が見当たらないのです。このように動けなくなり「うつ状態」に陥ったクライアントは、そこではたと「生きるモチベーション」の不在に気付くことになります。

このモチベーションの不在は、「自分がない」ことから生じた問題なのですが、その「自分」に対して唐突に「何がしたいのか」「何がイヤなのか」と問いかけてみても、「自分」は何も答えてはくれません。長い間、「ノー」を禁じられて「自分」の声を聞かずに来たのですから、そのように扱われてきた「自分」の側ももはや主張することを諦めてしまっていて、口をきかなくなっているのです。

このような背景があって生じた「うつ状態」なので、治療としては、深く丁寧に、実存の水準にまでアプローチをしなければなりません。ですから、こうした病態にいくら薬物療法を行っても、動力のないトロッコに燃料を入れたり燃焼賦活剤を入れたりするようなもので、原理的に効果が出るはずもないのです。

近年主流になっている認知行動療法というものも、あくまで認知や思考の偏りを「頭」のレベルで言い聞かせ、修正を図ろうとするプラグマティック(実利主義的)な手法なので、深い実存のレベルにまで変化を引き起こすことはできませんし、そもそもそのようなことを目的にしていません。

また、復職のためのリワークプログラムも推奨されるようになってきていますが、これも、あくまで休職のブランクからの就労能力や対人スキルのリハビリテーションをすることが目的であって、クライアント自身の実存的な問題の解決には貢献しません。

これらはあくまで、元の環境への「再適応」を目指す方法なので、むしろ、「生きる意味」など問うことのなかった「昔の自分」に戻ることを再訓練しようとするアプローチだと言えるでしょう。

しかしながら、やはり「生きる意味」を問うということは、とても人間的で必然的な魂の希求なのであって、そこにたとえどんなプログラムを課したとしても、人を、それを問わなかった昔の状態に戻すことはできません。もちろん、単に転職すればどうにかなるといったような、簡単な話でもありません。

解決可能な方法はただ一つ、その問いを真正面から受け止めて、本人なりの「意味」を見出せるところまで諦めずに進むサポートをすることだけでしょう。

しかし、人は「主体性」を奪われた状態のままで、自力で人生に「意味」を見出すことは原理的に難しいものです。まずは、人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、すなわち「自我」を復活させることから始めなければなりません。

真のセラピーとは、この困難な作業を適切にガイドし、援助するものでなければなりません。しかしこれは少なくとも、自身が実存の水準で苦悩したり、深い問題意識を持ったりしたことのあるような治療者でなければ、原理的に扱えません。治療者自身が経験していないことを、いくらセラピーとはいえガイドできるはずがないからです。


「役に立つこと」「わかりやすいこと」「面白いこと」への傾斜

先ほど触れた、精神医療における認知行動療法の台頭なども、目に見えて「すぐに役に立つこと」を至上の価値と考えてしまう、現代の病理が象徴的に表れたものだと言えると思います。

世の中のテンポがせわしいものになり、私たちはついつい「役に立つか立たないか」を性急に求めて、近視眼的に、目に見えてすぐ役立つものに傾倒してしまいます。それは例えば、大企業のCEO(最高経営責任者)などが、その限られた在任期間中に、長期的にはマイナスな方法であっても、短期的に増収が見込める経営をしてしまうことに似ています。

もちろん企業経営でもそれは困った問題なのですが、人間というものに対してインスタントな変化や成果を求めることは、なおのこと大きな問題を生み出してしまいます。

もし人間存在が、あたかも生産マシーンのように捉えられ、その成果によってのみ価値付けられてしまうのだとしたら、人間の精神は奥行きのないものになり、魂の抜けたロボットのごとき存在に成り下がってしまうことでしょう。そのように精神が皮相化されてしまうとすれば、人は「主体性」を持つことができず、「意味」を問う余裕すらなく、日々デューティに追われ、人並みの人生を追いかけることにのみ汲々とするようになるでしょう。

そんな中でも子供たちは、その曇りのない感性で、親や教師をはじめとする大人たちが、空虚な生を送っていることを敏感に感じ取っています。大人たちから「将来のために」という大義名分で勉学やお稽古事などをするよう求められたとしても、「それをやったところで、結局はあんな人生を送ることになるのか」と心の底では幻滅を感じてしまっているので、説得力はありません。

また、現代の市場経済の中で「すぐに役に立つこと」とは、すなわち「売れること」に直結してしまっています。そして「売れること」を追求するとなれば、「わかりやすい」「簡単」「役に立つ」「面白い」といったアピールポイントが求められることになるでしょう。需給バランスによって価値が決定される市場経済において、これはどうにも避け難いことです。

しかしその結果、本来は奥行きのある「質」を追求すべきものまでが、離乳食化したり、陳腐化するような事態があちらこちらではびこっているのは、大きな問題ではないかと思います。

例えば、テレビをつければ、地上波はお笑い芸人が束になって出演するバラエティ番組が激増し、その内容も、じっくり企画されたものよりは芸人たちの反射神経的な即興に委ねたものが多く、BS放送はと言えば、放送枠を持て余しているかのごとく、健康関連商品や便利グッズを割安で販売するテレビショッピングなどで埋め尽くされています。これらの現象からも、時間をかけた丁寧な企画を練り上げにくくなっている制作側の事情が、透けて見えるように感じられます。

書店に行っても、並んでいるのは「簡単」「わかりやすい」を売りにした種々のハウツー本か、エキセントリックなタイトルだけれど内容の希薄な本がほとんどになってしまいました。これも、発売後の短期間にいかにたくさん売れるかが勝負とされる「単行本の週刊誌化」が著しい実情によるものでしょう。いずれにしても、視聴率や販売部数をインスタントに追い求めた結果生じた現象です。

しかし、このような「質」の低下の問題について制作側の人たちに問いかけてみても、返ってくる反応は大概、「どんなキッカケでもいいから、まずは観てもらえなければ始まらない」「まずは書店で手に取ってもらえなければ始まらない」といった類のものです。

もちろん、そういった要素を無視できない事情があることは理解できますが、市場経済の性質におもねって不本意な妥協を強いられるうちに、送り手側は当初の志をどこかに置き忘れてしまい、「方便の自己目的化」という深い罠にはまってしまったのではないかと思われるのです。

このようなメディアの離乳食化・陳腐化は、親しみやすくすることで文化的啓蒙を行っているという一定の意義はあるものの、一方において、奥行きのある良質なものを探し求めている人々には、深い幻滅を感じさせてしまっていることもまた確かです。今日のテレビ離れや本離れといった現象の背景に、このような「質」的問題が潜んでいることを見落としてはならないでしょう。

しかし送り手側はしばしば、この現象からあべこべな結論を引き出して、逆方向にアクセルを踏んでしまっているようにも見受けられます。つまり、「わかりやすさ」「面白さ」「親しみやすさ」がまだまだ足りないのではないかと思い込み、さらに内容が希薄なものを量産してしまうという悪循環に陥ってしまっているのです。

それでも最近になって、バラエティ番組などの枠組みの中にも、「教養」的要素が少しずつ取り入れられたり、学問的好奇心に応えようとする番組も登場し始めました。そして、見応えのある番組が放送されるや否や、それに関連した書籍がよく売れたりすることもあり、これも、人々がこれまでいかに「質」に飢えていたかを表している現象だと思います。

つまり「質」への飢えは、もはやごく一部の内省的な人たちだけが感じるような限定的な問題ではなく、私たち全体が感じるレベルにまで来ているのではないかと思うのです。


第六回

アルコール、薬物、ギャンブル…
依存症の本質的なカラクリ泉谷閑示

消費社会が生み出す「受動的人間」

消費社会が私たちの空虚さにつけ入って生み出す「受動」の形態には、様々なものがあります。例えば、よく知られているものとしては、アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存などの依存症がありますが、必ずしもそういうものだけが問題なのではありません。

物を次々に手に入れないと気が済まない。何か物足りないので、空腹でもないのに食べ物を詰め込む。休日を「有意義に過ごした」と思いたいので、出来合いのレジャーや娯楽に時間を使う。スケジュールに空白ができるのがイヤなので、用事を隙間なく詰め込む。通勤時間といえども時間を無駄にしたくないので、経済新聞を読んで経済情勢についてキャッチアップするか、語学学習にあててスキルアップを図る。独りぼっちの感覚に陥らないように、LINEやツイッター、メールなどのネットツールで常に誰かとつながっていようとする。家にいる間は、観ていなくても、とにかくずっとテレビをつけておく。暇を潰すためにゲームやネットサーフィンをダラダラとしてしまう、等々。

これらはどれも、私たちが内面的な「空虚」との直面を避けるために、ついつい行ってしまう「受動」的行動です。現代人の「空虚」は、「空白」「無駄」「無音」といったものによって実感させられやすいので、これを避けるために様々なツールが生み出され、人々はそれに群がります。

「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

このように「受動」的であることになじんでしまった私たちは、自らの内面と静かに向き合うことが、いつの間にかすっかり苦手になってしまいました。大正時代に森田正馬が発案した森田療法(*2)においては、その初めに、誰とも交流せず、気を紛らすことも一切禁止され、ただひたすら自分自身と向き合う「絶対臥褥期(ぜったいがじよく)」という一週間のプロセスがありますが、これは「受動」的現代人にとっては、かなり苦痛を伴う困難なものに感じられることでしょう。近年、「絶食療法」のようなものが一部の人たちの間で評判になっているのも、身体的な洗い直しだけでなく、「絶対臥褥期」のような精神的な見直しの必要をどこかで感じ始める人が出てきた兆候なのかもしれません。

人間が「受動」的な状態に陥ってしまうと、「空虚」「空白」を埋めてくれるもの、つまり「役に立つこと」「わかりやすいこと」「面白いこと」を渇望するようになるわけですが、しかしこれは、内面的な「空虚」から目をそらすための「代理満足」に過ぎないので、そこには必ずや「質」的な不満足が生じてきてしまいます。代理のものでは、やはり「心」が本当に求めているものとは違うので、真の満足には至らないのです。

この「質」的な不満足に対してわれわれの「頭」は、代わりにこれを「量」的にカバーしようとあがきます。その結果、際限なく「量」だけが増大していってしまうことになるのですが、これが「依存症」の本質的なカラクリなのです。

つまり、「受動」的になってしまった現代人は、代理満足のために提供された物質や行為に誘惑されやすいだけでなく、それらに耽溺して「依存症」的な状態にまで陥りやすくなってもいるわけです。

*2─森田正馬が、様々な「とらわれ」で神経症的状態に陥っている患者を、「あるがまま」というとらわれのない状態に抜けることを目指した治療法で、仏教的精神がその治療観の根本に採り入れられている。


「中年期の危機」の若年齢化

分析心理学を提唱したユングは、人間の精神的危機が訪れやすい三つの時期として、青年期の危機、中年期の危機、老年期の危機というものを挙げました。

青年期の危機は、人が社会的存在となっていこうとする出発点での様々な苦悩、つまり、職業選択や家庭を持とうとすることなど「社会的自己実現」の悩みを指すものですが、中年期の危機の方は、ある程度社会的存在としての役割を果たし、人生の後半に移りゆく地点で湧き上がってくる静かで深い問い、すなわち、「私は果たして私らしく生きてきただろうか?」「これまでの延長線上でこれからの人生を進んでいくのは何か違うのではないか?」「私が生きることのミッション(天命)は何なのか?」といった、社会的存在を超えた一個の人間存在としての「実存的な問い」に向き合う苦悩のことです。青年期には重要に思えた「社会的」とか「自己」といったものが、必ずしも真の幸せにはつながらない「執着」の一種に過ぎなかったことを知り、一人の人間として「生きる意味」を問い始めるのです。

通常この「中年期の危機」は、文字通り中年期である四十代後半から六十代前半辺りにかけて起こってくるものですが、近年では、この種の苦悩が二十代辺りにまで若年化してきているのではないかという印象があります。中には稀に、十代後半からという早熟なケースにお目にかかることもあります。

さて、このような「中年期の危機」の若年化は、なぜ起こったのでしょうか。一つには、「社会的自己実現」の空疎化ということがあるのではないかと、私は考えています。

現代の若い世代の人々は、情報化が進んだことによって、大人たちが表面上演じている「社会的自己」すなわち「役割的自己」について、その舞台裏の空疎な実態を、かなり早い段階から知ることができる環境にあります。そのために、昔の世代のように楽観的で希望に満ちた将来像を描いたり、夢に向かって無邪気に進むことができにくくなっているのではないかと思われます。それゆえ、物質的困窮の有無にかかわらず、ハングリー・モチベーションを原動力にしてひたむきに「社会的自己実現」を目指すような生き方自体が、もはや時代錯誤な昔話のごとく響くようになってしまったのです。

これにより、現代の若い世代は「青年期の危機」が言わばスキップされることになって、一足飛びに「中年期の危機」と同質の苦悩に直面しているのではないかと考えられるのです。つまり、将来どんな仕事に就くべきかといった「社会的自己実現」について苦悩することよりも、もう一つ深い層の「生きることの意味を求める」という実存的な飢えの方が、若い世代にとってはむしろ切実な問題になってきているわけです。

もちろん今日の若者たちも、ある年齢になれば進路や就職の問題に思い悩むのは昔と変わらないのですが、しかしそこで悩んでいる内容は、以前とはかなり質の異なるものに変わってきているようです。

従来は「なりたいものになれるかどうか」「就きたい仕事に就けるか」という内容が多かったのですが、近年では「何がしたいのかわからない」「できれば面倒なことはしたくはないが、やらなければならないとしたら何をするか」「なぜ働かなければならないのか」といったものに変化してきているのです。

このように「なぜ働かなければならないのか」という問いを突きつけられた時に、ハングリー・モチベーションの価値観で生きてきた大人たちは、その場はどうにか取り繕うにしても、正直なところ、答えに窮してしまうことが多いでしょう。なぜなら、自身がそのような疑問を一度も抱いたことがないからです。

こんな場面でハングリー・モチベーションで生きてきた大人が口にするのは、しばしば「メシが食えなければ始まらないだろう」「贅沢病だ」「働かざるもの食うべからず」「人間として働くのが当たり前だろう」等々の、恫喝もどきのセリフだったりします。しかしこれは、「なぜ働かなければならないのか」という問いに対する答えになっていないのみならず、ハングリー・モチベーションで生きてきた人間の「思考停止」を露呈してしまうことになり、まったく説得力を持ちません。

このような価値観の完全なるすれ違いが、親子間をはじめとして、学校や職場など、あちらこちらで展開されているのが現代の実情なのではないでしょうか。私も臨床において「言葉が通じない」というクライアントの嘆きをよく耳にしますが、それもこのような価値観の相違が原因になっていることがほとんどなのです。


現代人の「心の飢え」とは

このように、現代という時代は、長らく続いてきたハングリー・モチベーションの残滓と「満ち足りた空虚さ」の混在する、混乱した状況の中にあると言えるでしょう。そんな今の時代に、人々の感じる「飢え」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

かつて、大学や専門学校などで精神医学や心理学の講義をした際に、私は必ず「愛と欲望について」といったテーマを採り上げるようにしていました。なぜなら、「人間とは何か」ということを考察するために、これは決して外せない重要なテーマだと思うからです。

これについては、同僚から「ここの学生には、それはかなり哲学的で応用編の内容なので、難しいと受け取られるかもしれませんね」と心配されたりもしましたが、予想に反して、学生たちの反応は実に生き生きとしたものでした。

テーマがテーマですから、その内容が哲学的な話に発展することもありましたが、普段は仕方なしに聞いているといった風の学生までもが、このテーマには真剣に耳を傾けていたのです。そして私は、彼らがこのような実存的なテーマを真正面から扱ってくれる大人に、とても「飢えて」いたのだと感じました。

現代の学校の多くは、いつの間にか「学問」ではなく、社会の「役に立つ」人間を養成するために「役に立つ」勉強を教え込むことを主たる使命と考えるようになり、実存的なテーマを扱う余裕を失ってしまったのかもしれません。しかし学生たちの中には、意識的にせよ無意識的にせよ、それでも「こういうことについて知りたかったのだ」「考えたかったのだ」という欲求が、熱く潜んでいたのです。

これは、若い学生に限った話ではありません。一般の方々を対象とする講演会や講座においても、このようなテーマの話を求められることが増えてきましたし、そこでは常に、熱心な問いかけが飛び交っています。

教育機関も、書籍やマスメディアも、先に述べたような諸事情によって、すぐに「役に立つもの」「面白おかしいもの」「親しみやすいもの」に傾斜してしまっているので、現代人の多くが、真正面から実存的な問題を考えるような「嚙みごたえのあるもの」に、潜在的な「飢え」を強烈に抱いているように、私には思われてなりません。

最近では、何度か「引きこもり」「自殺」に関する講演をする機会がありましたが、そこでは「人はなぜ生きるのか」「働くとはどういうことなのか」「人生の意味とは何か」などのテーマを扱うことが求められました。受講者の方たちはワラにもすがる思いで、それぞれが抱える「実存的な問い」のヒントを求め、集まってきていました。私は、その熱気から、彼らの「飢え」が彼ら自身の存在をかけた並々ならぬものであることを、改めて実感させられたのです。

そこで次章では、「生きることの意味」を考える上で、どうしても避けて通れない問題として立ちはだかってくる「働く」ということについて考えてみようと思います。

特に、この「働く」というテーマは、ともすれば一足飛びに「どう働くか」とか「何の仕事をするか」という話になってしまうことが多いのですが、しかしその前に、「働くとは何か」という根本的な問いを、一度きちんと考えておく必要があると思うのです。

意味もわからぬままにやみくもに働いたりするのでは、まさにフロムの言った「受動的人間」に堕することになるでしょうし、それでは「消費人」としてただ空虚感を紛らわすような日々を過ごすことになってしまうでしょう。

「実存的な問い」は、ともすれば「形而上的」と揶揄されるような、雲をつかむような抽象論に陥ってしまう危険もあるのですが、しかし、やはり「働くこと」そのものについて考える作業は、私たちの「実存」を、現世的で現実的な地平にしっかりと結びつける、大切な意味があるのです。


「本当の自分」は果たしてあるのか?

臨床場面でも、これまでの自分が「本当の自分」を生きてきたとは思えない、「本当の自分」がわからない、といった苦悩が語られることがかなり増えてきているのですが、一方、巷ではこのような悩みを、真正面から取り扱おうとしない風潮があるように思われます。

「自分探し」なんて時間の無駄である、「本当の自分」なんてどこにもありはしない、そんなことを考えている暇があったら何でもいいから働け、といった乱暴な議論があちらこちらでなされており、ただでさえ自信が持てなくなっている彼らは、これによって、さらに自己否定を強めてしまっているという困った実情があります。

それにしても、なぜここまで「本当の自分」を求める、いわゆる「自分探し」の評判が悪いのか。この問題を真正面から考えてみる必要があるだろうと思います。

かつて、アメリカで始まった自己啓発セミナーというものがわが国でも流行しましたが、中にはマルチ商法的なものやマインドコントロールが疑われるようなものもあったため、一種の社会問題になったことがあります。これに加えて、カルト的な新興宗教が「自分探し」を求める若者たちを巧みに取り込んで反社会的事件を起こしたりしたこともあって、社会全体に「自分探し」への警戒感とアレルギー反応が強く醸成されることになりました。おそらく、今日の「自分探し」へのアレルギー反応の背景には、このような経緯があったことも大いに関わっているのではないかと考えられます。

さて、今日巷で展開されている「自分探し」への批判には、大別すれば、二通りの種類があろうかと思われます。

一つは、旧来のハングリー・モチベーションの価値観、すなわち「労働」を賛美する「労働教」の信者によるもので、「自分探しなどというものは、働かないための甘えた言い訳に過ぎない」といった感情的反発に基づいたものです。「本当の自分」というものが存在するのか否かについては、彼らははなから否定的で、きちんと吟味してみようという姿勢がそもそもありません。多分、彼らは、「自分探し」というものによって、禁欲的で従属的な価値観の「労働教」の秩序自体、根底から覆されてしまうのではないかという危機感を無意識的に察知しているのではないか、と考えられます。これは、あまり理性的ではなく、古い精神論に固執し、思考停止状態に陥ってしまっている旧守的な人間によく見られる考え方です。

もう一つは、固く狭い哲学的な考察によるものです。「本当の自分」などというものは、そもそも知ることもできないし、その存在を証明することもできない対象だとして、そういうものを想定すること自体について、否定的な見解を持っています。

これらは、客観という狭い合理性の世界の範囲内で認識できるものだけを厳密に扱おうとする立場で、原始的な盲信や宗教的思考停止を払拭するために、合理的・科学的思考を旨とします。これが、近現代の世界の基本的ドグマになって、今日の物質的繁栄をもたらしたことは言うまでもありませんが、ここで問題になっている「本当の自分」を求める人々の心性に対して、この考え方を適用することには、原理的に無理があると言わざるを得ません。


薬物治療を凌駕する「劇的な内的変化」とは?

フロイトがかつて、人間存在にとっては「物的現実」ではなく「心的現実」が重要であることを説き、これにより人類の人間理解が大きく前進したわけですが、これはつまり、人間というものは「客観」によってではなく「主観」やイメージによって規定される生き物であるという発見だったと言えるでしょう。このことを念頭に置き、そこから人間というものを考えなければ、やはり本当のことは見えてきません。

この「心的現実」というものが、いかに人間の在り方に決定的な影響力を持つものであるかということは、日々の臨床で私も目撃し、驚嘆させられています。一般に想像されていることとは違って、「心的現実」の変化によって人間に起こる変化は、薬物などによる化学的作用をはるかに凌りよう駕がする、ダイナミックで本質的なものです。身体医学的アプローチが空振りに終わったような慢性的身体疾患でさえ、「心的現実」への働きかけによって劇的に解決することも、決して珍しくありません。これが、「心」というものを備えた人間存在の真実なのです。

このように「心」を備えたわれわれ人間には、内面的な苦悩や問いがどうしても湧き起こってくるものなのですが、これについて、「頭」というコンピューター的な理性で合理的思考に基づく議論を行っても、どうにも的外れな結論しか導き出せません。人間の「心」というものをよく知れば知るほど、それが合理的思考というツールでは決して測り切れない次元のものであることがわかってくるはずで、象牙の塔や書斎にこもって「頭」をひねってみても、それは見えてこないのです。

苦悩から脱した先にある「第二の誕生」

さらにこの問題を論じる上で、どうしてもつきまとってくる大きな問題があります。

生まれ育ってくる中で避け難く曇らされてしまい、「頭」でっかちで神経症的にならざるを得ないわれわれの感覚や認識というものを、「心」を中心に回復させることができた時、人は「本当の自分」になったという内的感覚を抱きます。これは、生まれ直したかのような新鮮さと歓びに満ちたものであり、「第二の誕生」とも呼ばれます。第1章で採り上げた「中年期の危機」を解決することとは、この「第二の誕生」の経験を得ることにほかなりません。

このような内的変革の経験は、これまで超越体験、覚醒体験、宗教体験、悟りなど様々な言い方で語られてきたものですが、これを経た人間とそれ以前の段階に留まる人間との間には、絶望的とも言えるディスコミュニケーションが横たわっています。

超越体験はこれまで、どうしても宗教的、あるいはスピリチュアルな文脈で語られることが多く、そこには常に「私だけがそれを達成できた優れた人間である」「私こそは神に愛され選ばれた人間だ」といった、どこか選民思想的な思い上がりがつきまといがちです。さらに、この経験を奇跡のようなものと捉え、そのための秘儀を「あなただけに特別に伝授します」といった触れ込みで、多くの自己啓発セミナーや新興宗教、自称カウンセラーによる素人心理療法、スピリチュアルなヒーリング等が様々に行われてきたという問題もあります。

そこには、「未体験なことを体験させる」という構造から来る避け難い不透明さがあるために、内容はかなり玉石混こん淆こうです。中には、偏った個人的経験の押し付けに過ぎないようなものや、集団心理を用いた洗脳まがいの危険な内容のものも珍しくありません。

しかし、人間心理を扱うということは、一見誰にでもできそうに思えて、外科手術に匹敵するような熟練と、深く普遍的な人間理解を要するものです。素人療法的に不用意なアプローチを行うことで、場合によっては精神病を発症させてしまったり、精神に深い傷や偏りを負わせてしまうことにもなりかねません。実際、私もこれまで、そのような経緯で調子を崩したケースのアフターケアや精神の立て直しの作業を数多く行ってきましたが、言葉のメスというものは見かけ以上に持続的な威力を持っているもので、決して個人的な経験のみに基づいて安易にふるわれてはならないものだと思います。


「意味」と「意義」の取り違え

本書の冒頭で、私は「人間は意味がなければ生きていけない生き物である」ということを述べました。しかし、この「意味」とはいったい何もので、それは果たしてどのようにして感じられるものなのかということを、ここで掘り下げて考えてみたいと思います。

まずは、この「意味」というものを明確にするために、似通った使われ方をすることの多い「意義」との違いについて考えてみましょう。

「意味」「意義」という概念の違いについては、論理学や現象学などの分野でもいろいろと議論されてきているテーマの一つではありますが、しかしそれらは専門的に過ぎ、「生きる意味」という問題を考える上ではあまり参考になりません。ここでは、普段私たちが用いている感覚をもとにしながらも、「意義」「意味」を異なるものとして定義付けてみようと思うのです。

現代に生きる私たちは、何かをするに際して、つい、それが「やる価値があるかどうか」を考えてしまう傾向があります。このような、「価値」があるならばやる、なければやらないという考え方に、「意義」という言葉は密接に関わっています。つまり、私たちが「有意義」と言う時には、それは何らかの「価値」を生む行為だと考えているわけです。

また、「時間を有意義に使いましょう」「有意義な夏休みを過ごしましょう」といったスローガンは、私たちが子供時代からイヤというほど聞かされてきたおなじみのものです。これは一見、もっともな教育的スローガンのように思われますが、実のところかなり私たちを窮屈にしているものでもあります。

例えば、うつ状態に陥った人たちが療養せざるを得なくなってまず直面するのが、この「有意義」な過ごし方ができなくなってしまった苦悩と自責です。働くとか学校に行くといった「有意義」なことができない自分を、価値のない存在」として責めてしまうのです。

問題なく動けて社会適応できている時には気付き難いことですが、私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。特に最近では、SNS等に写真付きで投稿できるような「何かをする」ことが重視される風潮も高まっていて、ひたすらゴロゴロして過ごした場合など、「何もしなかった」ことになって、後ろめたい気持ちにさいなまれたりします。何の「価値」も生み出さなかったのだから、ちっとも「有意義」でなかったことになってしまうわけです。

また現代では特に、「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの役に立つことに極端に傾斜してしまっているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるものを指すニュアンスになっているのです。

しかし、一方の「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまり、ひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。


「仕事探し」=「自分探し」の幻想を捨てよ

世の中で用意されている「仕事」の多くが、「労働」と呼ばざるを得ないような、手応えの少なく断片化されたものになってしまっている今日、私たちは既存の選択肢の中だけでキリのない「職探し」に迷い込んではいけないだろうと思います。

内なる「心=身体」の声に導かれ、場合によっては真に「仕事」や「活動」と呼べるものを自分で創出するのもよいでしょうし、どこかに理想の職業が用意されているという幻想から脱却できていれば、自分の資質にかなった、よりふさわしい職業に進路変更してみるのもよいでしょう。さらに、「働くこと」に中心を置かない生き方を模索するという選択もあるでしょうし、たとえ「労働」に従事せざるを得ない場合においても、それをいかに自分が「仕事」と呼べるものに近づけていけるかを工夫してみるのもよいでしょう。つまり、「労働」において見失われがちな「質」というものを、自身の「心=身体」の関与によって回復させることができる余地が、一見無味乾燥に思える「労働」の中に見つかることもあるのです。

いずれにせよ、人間に与えられている知恵というものは「心=身体」のところに源があり、それは決して受動的で隷属的なことを良しとしません。「心=身体」を中心にした「本当の自分」という在り方は、能動性と創造性、そして何より遊びを生み出すものです。

一個の人間は一つの職業に包摂されるほど小さくはない、と私は考えます。古代ギリシヤ人がかつて人間らしい在り方と捉えていた「仕事」や「活動」、そして「観照生活」というものを、少しでも現代に生きる私たちが自らの生活に復活させることができるか。私たちに問われているのは、「労働」をやみくもに賛美する「労働教」から脱して、今一度、大きな人間として復活することです。

キリスト教的な禁欲主義に端を発し、「天職」という概念の登場によって「働くこと」が人生の最重要課題として絞り込まれ、それが転倒して金を稼ぐことが賛美されて資本主義が登場し、いつしか浅薄な欲望を刺激し拡大再生産するこのモンスターが、われわれの神となったのです。これに奉仕することを「召命」として人々に求めるもの、これが「労働教」の正体です。

しかし、一人一人の「心=身体」から湧き起こる知恵が、有能なマネージャーとして「頭」の理性を協働させ、社会に向かって動き出した時、必ずや既存の型におさまらない、その人らしい歩みが導き出されるはずです。

そして、そのように生きる人が一人でも増えていくことによって、非人間的な「労働」が、少しずつ「仕事」や「活動」に置き換わって、人間が人間らしく生きられるようになっていくのではないでしょうか。それが、すなわち「労働教」からの脱却であり、現代に生きる私たち一人一人の重要な使命ではないかと思うのです。


「生きる意味が感じられない」人へ【リバイバル掲載】泉谷閑示

幻冬舎では各電子書店で「憂鬱を吹き飛ばせ!エッセイ本フェア」を開催しています。今回はフェアに合わせて「憂鬱」というワードに関連のある、過去の人気記事をご紹介いたします。

*   *   *

人間は、生きることに「意味」が感じられないと、生きていけなくなってしまうという特異な性質を持つ、唯一の動物です。

「言葉」という特別なツールを持つようになった人間は、精緻なコミュニケーションが可能になったのみならず、これを用いて「考える」ことができるようになりました。そしてここから「生きる意味を問う」という、最も人間的な行為も生じました。

私たちは今日、少なくとも物質面や衛生面において、そして何より情報化という側面において、様々な欠乏や不具合を解消し、かなり便利で安全な生活を手に入れました。しかしその一方で、この一見豊かになった現代において、「生きる意味」が感じられないと苦悩する人々が、急激に増えてきています。

「温度の高い」悩みから「温度の低い」悩みへ

私がかつて精神科医として扱うことが多かった問題は、例えば「愛情の飢え」「劣等感」「人間不信」といった熱い情念が絡んだ悩み、いわば「温度の高い」悩みが中心でした。しかし最近では、「自分が何をしたいのかわからない」といった「存在意義」や「生きる意味」に関するテーマが持ち込まれることが多く、これを一人密かに苦悩しているような「温度の低い」悩みが主要なものになってきているのです。

しかし、これまでの精神医学や心理学は、おもに「温度の高い」悩みや精神病を扱うことに力点を置いてきたせいか、この種の「温度の低い」問題に対しては、その本質を捉えることができていないように思われます。

例えば、近年激増したいわゆる「新型うつ」に対して、一部の精神科医たちからなされている批判的発言などは、まさしくこのことを象徴している現象ではないかと思います。

従来のアプローチでは歯が立たない苛立ちからか、治療者としての無力感が器用に反転されて、「このような病態は精神医学が真正面から扱うに値しない類のものであり、そもそも患者の意志の薄弱さが原因なのだ」といった問題のすり替えが、平然と行われてしまっていますが、これは心理学で有名な「酸っぱいブドウの機制(*1)」という防衛機制によるもので、自身のプライドを守るために対象の価値を切り下げるという歪んだ合理化です。

しかし、困ったことにこのような偏狭な精神論も、ひとたび専門家の肩書で語られてしまうと、これがあたかも学問的に正論であるかのように世間には認知されてしまいます。それによって、そうでなくとも自信を喪失しているクライアントたちは、「新型うつ」への偏見による自責感までをも背負い込むことになって、精神的にさらに追い詰められてしまうことも珍しくありません。

このように、最も人間的な苦悩であるはずの「温度の低い悩み」を扱えないのだとしたら、精神医学も心理学も看板に偽りありという誹(そし)りを免れないでしょうが、このような問題に警鐘を鳴らした専門家がいなかったわけではありません。

ヴィクトール・E・フランクルは、主著『夜と霧』で知られるユダヤ人精神科医ですが、一九七七年に刊行された彼の『生きがい喪失の悩み』は、次のような言葉で始められています。

 

 どの時代にもそれなりの神経症があり、またどの時代もそれなりの精神療法を必要としています。

事実、私たちは今日ではもはやフロイトの時代におけるように性的な欲求不満と対決しているわけではなくて、実存的な欲求不満と対決しています。また今日の典型的な患者は、もはやアドラーの時代におけるように劣等感にさほど悩んでいるわけではなく、底知れない無意味感に悩んでおり、そしてこれは空虚感と結び合わされているので、私は実存的真空と呼んでいるのであります。

(『生きがい喪失の悩み』より ヴィクトール・E・フランクル著 中村友太郎訳)

 

補足すれば、フロイトが問題にした「抑圧」のテーマやアドラーが問題にした「人間関係の悩み」や「劣等感」といったテーマが、現代においてなくなったということではありません。時代の変遷の中で、メインとなるテーマがより実存的なものへと移り変わってきているということを、フランクルは鋭敏に察知し、そのことを指摘しているのです。そして、ここで言われている「実存的な欲求不満」「底知れない無意味感」「空虚感」といったものこそ、まさしく、私が先ほど「温度の低い悩み」と呼んだ悩みそのものなのです。

フランクルは一九〇五年にウィーンに生まれましたが、ユダヤ人であったがためにナチスによって強制収容所に収容され、かの過酷な経験をしました。しかし幸運にも生還した彼は、その経験を深く考察し、のちにこれを『夜と霧』という本に結実させたのです。

この本でフランクルは、人間について、とても重要な真実を述べています。それはつまり、人間という存在は「生きる意味」を見失うと、精神が衰弱してしまうのみならず生命そのものまでもが衰弱し、ついには死に至ってしまうこともある、ということです。

彼が目撃したこの人間の真実は、決して強制収容所という限界状況だけで認められる特殊なものではなく、一見平和な暮らしを営んでいる私たちにもそのまま当てはまる普遍的なものです。

フランクルは、この重要な真実をかなり以前に指摘していたわけですが、迂闊(うかつ)にも私たちは、この警鐘に耳を傾けず大切な「実存的な問い」をどこかに置き忘れたまま、今日まで来てしまいました。

*1…ブドウを手に入れようとしたけれど取れなかったキツネが、「あのブドウはどうせ熟れてなくて酸っぱいんだ!」と悔し紛れにつぶやいたというイソップ物語の話に基づいて、フロイトが合理化という心理的防衛機制を説明したもの。「欲しくても手に入らない」対象を、「手に入れるほどの価値のないもの」と認識をすり替えて納得しようとすることを言う。

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