祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。

人生を毎日、楽しんで生きよう。仕事はそこそこに幸せに生きよう。

嫁は今日は夜、バイトなので明日の午後掃除でいいか?と聞いてきた。はいと返事をしたがよかったのかな。

 

「今日できることは今日のうちに」そんな生き方をしてきた人は定年後に大きな喪失感を味わうことになる

豊かな人生を送る秘訣は何か。浜松医科大学名誉教授の高田明和さんは「明日できることはあえて明日に回せばいい。『今日、とくにやることがない』というのは、言い方を変えれば、『今日一日、何をやってすごしてもいい』ということ。時間の空白は『時間がなくてできなかったこと』を自分に堂々と許可できる、最高の時間である。時間についての考え方を変えると、毎日の生活がどんどん幸せなものになっていく」という――。

※本稿は、高田明和『88歳医師の読むだけで気持ちがスッと軽くなる本 “年”を忘れるほど幸せな生き方』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

定年後に「今日やることがない」喪失感を抱かないために

・今日できることなら、今日のうちにやってしまおう

・今日できることでも、今日やる必要がないことなら、明日以降にやればいい

この二つの格言のうち、あなたはどちらを選ぶでしょうか?

会社勤めをしている日本人の多くは、前者を選ぶと思います。おそらくは上司からもそうするように指示されてきたし、多くのビジネスハウツー書でも、「それが効率的で正しい」と述べられてきたからです。

だから、早朝に出社してメールのチェックをすませたら、勢いよく仕事に取りかかる。通勤電車の中でも仕事に関わる情報をスマホでチェックし、ランチタイムやカフェで休息をとる際も、ノートパソコンを持ち込み、結局は、場所を変えて仕事の延長のようなことをしている……。

こうして、24時間の時間割に仕事を詰め込めるだけ詰め込んでいると、時間の余白、時間的な遊び」がなくなってしまいます。

時間的な遊びがなければ、ちょっとしたトラブルが起きただけでもパニックになり、残業続きになってしまいます。

そうやって、目いっぱい前倒しして明日からの仕事をラクにするのかと思いきや、またしても明後日の仕事やら、その先の新しい仕事やらを詰め込んでスケジュールを埋めていきますから、どれだけ前倒ししても仕事がラクになる日は一向にありません。

現役時代にそんな仕事人生を送ってきた人は、定年を迎えて仕事がなくなったとたんに、大きな喪失感を抱えてしまうでしょう。私もせっかちな性分ですから、「今日やることがない」となってしまったときの喪失感は理解できます。

空白の時間は素敵すぎる

でも、あるとき次のことに気づいたのです。

明日できることはあえて明日に回して、今日のスケジュールに空白を設け、「では、今日はどんなことをやってみようか」と考えられる余裕こそ、心を晴れやかにし、人生を豊かにする方法だと。

「今日、とくにやることがない」というのは、言い方を変えれば、「今日一日、何をやってすごしてもいい!」ということです。

スケジュールの入っていない空白の時間で、「今までできなかったこと」をなんでも実行することができる。

ずっと行ってみたいと思っていた店に行ったっていいし、本屋さんに行って分厚い本を買い、存分に読書をするのもいい。新しい趣味を始めるのも自由なのですから、要するに、時間の空白は、「時間がなくてできなかったこと」を自分に堂々と許可できる、最高の時間であるはずです。

ところが、そんな素敵な空白の時間を怖がるのは、これまでの人生で、「誰かの都合で何かをさせられる時間」ばかりを優先してきたからです。

会社の用事、人間関係の用事、生活する地域の用事、家族の用事……。そうした用事をこなすことで、私たちは役割を果たすという満足感を得てきました。

でも、これからの人生は、自分の満足のために時間をもっと使っていく練習をしましょう。時間についての考え方を変えると、毎日の生活がどんどん幸せなものになっていきます。

「明日のことを考えるのはやめなさい」

仏教には「時節因縁」という言葉があります。意味は、「何事かが生じるには、それぞれ定められた時がある」ということです。

たとえば、花が咲くのは毎年決まった時期です。その時が来れば自ずと花は咲きます。人間関係においても出会いや別れの時機は決まっていて、どんなに足搔いても別れの時はやって来ます。また、どんなに努力をしていても機が熟さないかぎり報われないし、逆にどんな障害があっても、その時がやって来れば願いは叶うのです。

これが「時節因縁」です。この考えを、ものすごく嚙み砕いて簡単に言えば、「明日のことを考えるのはやめなさい」ということにもなるでしょう。

でも、その前に、仏教でいう「因縁」という考えを理解する必要があるでしょう。

仏教の創始者である仏陀(ぶっだ)は、宇宙を貫く法則が3つあるとしています。これを三法印と称し、次の3つです。

1.諸行無常

2.諸法無我

3.一切皆苦

1の「諸行無常」は、『平家物語』の冒頭にも出てくる言葉ですから、ご存じの方も多いでしょう。「この世のすべてのことは常に移り変わっている、一瞬たりとも同じではない」という教えで、今は物理学でも証明されている概念です。

物質の最小単位の素粒子は絶え間なく変化しています。20~21世紀の現代科学がようやく証明したことを、仏教は、紀元前5世紀(諸説あります)の時点ですでに言い当てていたわけです。

3の「一切皆苦」は、「この世のすべては苦しみである」という法則です。

この苦には、「四苦八苦」という、生きること、老いること、病気になること、死ぬことの根本的な四苦に加えて、好きな人と別れなくてはならないこと、嫌いな人と一緒にいなくてはならないこと、努力してもいい結果が得られないこと、

そして、自分の能力が自分の思うようにならないことで苦しむことの四苦が含まれます(以上で「四苦八苦」)

仏陀は、これが生きるということだ、として「一切皆苦」としました。

あらゆる未来は己の意思を超えたところに

「因縁」に関連するのが、2の「諸法無我」です。

「因縁」とは、仏教用語で、物事が生じる直接の力である「因」と、それを助ける間接的な条件である「縁」のことを指します1。この二つの働きによって、すべての物事が起こると説かれています1。また、「因縁」とは、前世から定まった運命や宿命、以前からの関係、物事の起こり、言いがかりなど、様々な意味を持ちます1

その本来の意味は、「この世のすべての物事は因縁によって生じたもので『私』という実体もない」ということです。

たとえ自分の指であっても、切られればおしまいです。財産なども失えばおしまい、地位も裏切られればおしまい。だから、「わがものなぞないぞ」というわけです。そもそも自分というものがないのですから。

そして、地位を失ったり、財産を失ったりするのは、さまざまな因縁によると考えるので、すべてが因縁で得たり失ったりするけれども、「自分のもの」ではないということになります。

これをさらにつき詰めると、誰も自分の意思で何が起こるかを決めることはできない。あらゆる未来は己の意思を超えたところで、そうなるよう定められている、ということになります。

「因縁」というのは、あらゆる「関わり合い」です。

私たち一人ひとりに当てはめるなら、誰もが生まれてから現在まで、いろいろな人に出会い、いろいろなものを手にとり、いろいろな出来事に遭遇してきています。

こうした関わり合いのすべてが、私たちの過去の出来事を決め、今の境遇を決め、さらに未来をも決定しているわけです。

さまざまな因縁を持った人々が、それぞれの因縁の結果、それにふさわしい誰かと出会い、情報に出合い本書を手にとり、読んでくださっているのも因縁によるものです)、その結果、「未来に何が起こるか」が決まると考えていたわけです。

いやいや、寿命・運命を変える道はある!

中国・明の時代の袁了凡という人物が書いた、『陰騭録』という有名な古典があります。その中にある逸話です。

あるとき、親孝行な了凡の家に旅の占い師が来て、言いました。

「お前はすばらしい。これから先、28歳のときに役人になるための科挙の試験を突破する、40歳のときに結婚し、この郡の郡長になり、これこれこんな人生を送る……」と、了凡の一生涯で起こることをことこまかに予言したのです。

そして実際、科挙の試験は、その老人が予言したとおりの点数で突破することができました。

そこで了凡は、「ああそうなんだ。人生は全部決まっているんだ」と思い込み、その話を有名な禅僧にしたのです。すると了凡は、禅僧に「お前はなんて馬鹿なことを言っているんだ」と一喝されます。

「昔から、積善の家には必ず余慶(祖先の善事の報いによって子孫が受ける吉事)あり。いいことをすれば必ずいいことが起こるというではないか。お前はこれから毎日いいことをして、『今日はこういう善事をした』と書き留めるようにしなさい」

了凡が言われたように実践したところ、彼は、かつて占い師が予言した地位よりも、もっと高い位の職に就くことができたのです。

そして「できない」と予言されていた子どももでき、予言された死の年齢よりもずっと長く生きることができました。

つまり、この話からいえることは、未来をよりよいものに変えたいと思うなら、よくないことの原因を過去に求め、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔していても仕方がないということ。

それよりも、今からの「因縁」を変える必要があるのです。

明日やるべきことを前倒しして今日やる、ということを繰り返して予定をいっぱいにすることよりも、今まで実行してこなかった「今やるべきこと」「誰かのためになる、いいこと」に取り組んでいけばいい、そうすれば、よりよい未来がやって来るということです。

嫌なことを大幸運に転換するしたたかな極意

因縁の中でも、人間関係の問題は、何歳になっても私たちを悩ませる大きな要素です。

この章の冒頭に掲げたように、「『今日できないことは明日考える』という心の余裕を持とう」というマーク・マイヤーズの言葉のあとは、「たとえ嫌なことがあっても、力のある人には一歩譲っておく」「仕事ができる人や力のある人にがっかりさせられても、腹を立てない」と続きます。

年をとると、この世は非常に不公平であると痛感することが増えます。

普段から大して健康に気を遣っていないのに、ずっと病気をせずに元気な人もいれば、摂生していてもなぜか大病から逃れられない人もいる。早くに家族と離れてしまって孤独な人もいれば、いつまでも周りに人が集まっている人もいる。

いくつになっても現役で仕事をしている人もいれば、さんざん会社に貢献してきたのに、部下や上司とちょっと折り合いが悪かったばかりに、早々に追い出されてしまう人もいます。

すると、うまくいっていない人は、「自分の何がいけなかったんだろう?」「どこで人生を間違ったんだろう」と、過去をくよくよ振り返り、今現在の諸問題に集中できない悪いパターンにはまります。

「そういう因縁だったんだな」と納得して放っておく

うまくいかなかったのは、必ずしもその人自身が悪かったわけではありません。

仏教の言葉を借りれば、それも「因縁」で、ただ単に人生における巡り合わせで、そうなってしまっただけ。

結果に差が出たとすれば、それもまた因縁であり、別に悪いくじを引いたわけではありません。それがのちの大幸運につながることもあるのですから、いちいち過去を詮索せず、ただ現状をありのままに受け入れ、マーク・マイヤーズの言うように「力のある人には一歩譲っておく」

そして、仕事のできる人に馬鹿にされたり裏切られたりして、落ち込むことがあっても、いちいち腹を立てずに、「そういう因縁だったんだな」と納得して放っておけばいい――それが賢い方法だと思うのです。

———- 高田 明和(たかだ・あきかず) 浜松医科大学名誉教授 医学博士 1935年、静岡県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業、同大学院修了。米国ロズウェルパーク記念研究所、ニューヨーク州立大学助教授、浜松医科大学教授を経て、同大学名誉教授。専門は生理学、血液学、脳科学。また、禅の分野にも造詣が深い。主な著書に『HSPと家族関係 「一人にして!」と叫ぶ心、「一人にしないで!」と叫ぶ心』(廣済堂出版)、『魂をゆさぶる禅の名言』(双葉社)、『自己肯定感をとりもどす!』『敏感すぎて苦しい・HSPがたちまち解決』(ともに三笠書房≪知的生きかた文庫≫)など多数ある。 ———-

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