数学ができる人とできない人では、何が違うんだと思いますか?できる人は何がわかっているのでしょうか?

最初に結論から申し上げれば、

数学ができる人とできない人の違い⇢ これは科学的に決着がついていて、最大の違いは運だと言うことがわかっています。

できる人は何がわかっているのか?⇢これは遺伝学的にはまだわかっていません。

(わかりやすくするために正しい表現じゃないものがありますがご了承ください)

米国の白人種を中心とした110万人の遺伝学的データから、数学に対する向き不向きを遺伝学的に計算し(Polygenic scoreと言います)、その向き不向きに基づいて別の数千人の米国の中高校生に、どの数学の科目を選択したのかを明らかにした研究があります

 。

より濃い青色がDNAが数学に向いている人、オレンジが数学に向いていないと計算された人です。

上のSankey plot(沖積図)を見れば一目瞭然なように、遺伝的に数学に向いている人(青)の多くは、Grade9(日本で言う中学3年生)ですでに差が付いており、Grade12(高校3年生)で一番上の科目であるCalculus(微分・積分)までたどり着いているのに対し、数学に向いていない人(オレンジ)の多くはAlgebra(代数)以降、数学からドロップアウトしてしまっていることがよくわかります。

青色やオレンジの色は、テストの点数で決められた色でもその人の勉強時間で決められた色でもありません。この人が生まれつき持っている生涯変わらないDNAのみから算出した値です。それで、数学の科目の選択すらここまで説明できてしまうのです。日本でも数III, 数Cまでたどり着く人は一部でしょう。

数学のテストの点数の差が、どれくらい遺伝的影響を受けるのかというのは複数の研究がありますが、概ね白人種を中心とした研究では70–80%程度は遺伝的影響を受けていると結論しています[2] 。

我々、日本人は努力という言葉が大好きです。もはや信仰の域に達していると言っていい。ですが、百万人というデータから見れば、個々人の努力の差(Unshared environmentとして算出されます)が数学の点数の差(分散)に及ぼす影響は、我々の想像よりずっとずっと少ないのです。

さて、ここで「遺伝で全てが決まっているのだ」と誤解してしまった方は、(誤解は無理からぬことだと思います。)以下の文章をぜひ読んでみてくださいね。

質問:遺伝が重要ということは、つまり環境は重要ではないということ?

いいえ。あくまで、遺伝の影響は環境との相互作用によって発揮されます。我々は母親の産道をくぐった瞬間から、微分積分ができるように生まれてはきません。あなたが、ニューギニアの奥地に生まれたのであれば、きっとあなたが優れた数学の才能を持っていたとしても、その機会を発揮する可能性は少ないでしょう。遺伝的影響が大きいということは、我々が環境から強い影響を受けているということの裏返しでもあります。しかしながら、環境がある程度同じであれば、数学のテストの点数の差の多くは遺伝的要因によって決定されてしまうということです。環境を変えるということは多くの人にとって容易ではありません。目の前にスマートフォンがあれば、数学の勉強をせず多くの人はQuoraやYoutubeに時間を費やしてしまうのです。

質問:やはり親ガチャなんですか?

両親が子供にとって重要なことを否定しません。しかしながら数学の点数を例にとれば、家庭環境が及ぼす影響というのはあまり大きくないということがわかっています(虐待はもちろん別です)。そもそも、子供が受け継ぐ遺伝子は両親を元に作られるものですが、相互に組み換えや突然変異が無限に近い組み合わせで起こり、全くの別物です。その証拠に兄弟ってそれほど似てないですよね。両親は自分の精巣と卵巣で行われる、この遺伝子組み換えの7兆通りの組み合わせを操作できるわけではないのです。だからこそ、人の誕生というのは奇跡なのです。親ガチャという言葉より、遺伝ガチャという表現が、科学的にまだましだろうと思います。

質問:私の努力は無意味だということ?

いいえ。そもそも百万人のデータから得られたものであり、あなたはそこに含まれていません。また百万人の中には、努力でものすごく点数が伸びた人もいれば、なにもしなくても数学の点数が良かったという人もいるでしょう。努力が無意味だということではありません。ただ、大規模なデータで見れば、ある程度の努力なんて皆するので、それによってほとんど差がついていないということと解釈することもできます。

我々が数学に向いているDNAを持つか持たないかは、完全なる運、確率の問題です。

これは2つめの質問の回答になるかもしれませんが、この遺伝子がどのようにその人を数学を得意にさせているかは現在わかっていません。しかし今後の研究が明らかにしていくでしょう。

また、遺伝的要因のみならず、高校の先生であったり、両親が教育に関心があるかということも数学の能力や科目選択に影響するということがわかっています[3] 。が、高校の先生や親の教育への関心も子供が努力で変更できるものでありません。どのような高校の先生に巡り会えるか、親が教育に関心があるかも運です。

回答をまとめますね。

数学のできる人とできない人の最大の違いは、運です。その人の努力が足りないとか、考え方が優れているとか、そういうことではないのです。

さて、これで回答は終わりなのですが我々は遺伝学的研究から得られた成果を、どのように理解すればいいのでしょうか?

偉大なる哲学者、ハンナ・アーレントは言いました。

ハンナ・アーレント Getty imagesより

「意志とは過去を憎むこと、そして過去との切断」であると。そして、我々は過去と切断できない以上、意志は存在しないのだと。

“実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだという見解は、未来を真正な時制とすることを否定している。”

ハンナ・アーレント

我々は、数学の選択科目一つとってもDNA(最初の過去)による強い影響を受けています。たとえ過去の記憶を全て無くしたとしても、我々は最初の過去(DNA)を切断できない。ゆえに、我々に自由意志などというものは存在しないのです。

たとえ記憶を無くしても、あなた以外あなたではないのです。だからこそ、あなたは素晴らしいのです。

したがって、完全なる自己責任も存在せず自己責任とは常に相対的なものです。

我々は完全なる運によって決定されるDNAによって強い影響を受けています。今回論じた、数学の科目の選択だけではありません。

コーヒーを飲む量から [4] 、飲酒量[5] 、喫煙[6] 、日々の身体活動量 [7] 、どこの政党に投票するか [8] 、性行為を何歳で初めてするか[9] 、同性愛者か[10]職業や収入[11] 、幸福感[12] など、ありとあらゆる(自分が決めていると思い込んでる)選択も実際には程度の差こそあれ、遺伝的影響を受けています。

血糖値、コレステロール値、体重、うつ病、読解、語彙にいたるまで、全ての選択、能力に完全なる自己責任は存在しません。

もちろん体重は努力すれば減らすこともできます。ただし、太っている人が痩せている人に比べて努力してないとは限らないのです。DNAが現代の生活で80kgと見積もっている人が、50kgに痩せるにはDNAが60kgと見積もっている人よりも、大変な努力が必要です。太っているからと言ってあなたよりダイエットを怠けていると決めてつけることはできません。同じように、喫煙者だから、アルコール依存症だから、うつ病だからといって怠けているわけではないのです。

なぜなら、同じ努力で同じ結果になるわけではないことを遺伝統計学は証明しているからです。また努力できるかどうかも遺伝的要因に大きく依存します[13] 。

医療従事者においても、喫煙やアルコール依存症を自己責任だと決めつける人たちがいるのは嘆かわしいことです 。その人が同じ遺伝を持ち、同じ環境に置かれたら、アルコール依存になることを果たして拒否できたのでしょうか?極めて疑問です。

Quoraにもいらっしゃいますよね。本人の自己責任ではないことは免罪されるべきだと言いつつ、喫煙者は自己責任、または読解力の乏しいバカと揶揄する人たち。坊主憎しで袈裟まで憎い。哀しいかな、怒りで己が心を遠くに放っています。

このように、一部の右派論者は科学的事実を無視し、左派論者は自らの主張を通すために、矛盾に飛びつくのです。

そして両派もマウントを取ろうとする人たちは、とりわけ選択や努力を強調します。

「私とあなたは何も変わりません。でも私は勝ち、あなたは敗者となりました。
私がこの地位にいるのはこういった選択あるいは努力をしたからです」と。

中国史屈指の思想家である韓非も用いた、2000年以上変わらぬ論法です 。

彼らの言いたいことは対偶をとってみるとよくわかります。

努力をしなかったら、私はあなたと同じ敗者でしたと。

恵まれたカードをもって生まれ、配られたカードで勝負するしかないでしょ?

と勝ち負けを強調する。きっと、大富豪というゲームをやったことがないのでしょう。

(私の生まれ育った地域だと大貧民と言ったのですが皆様はどちらでしたか?笑)

ハーバード大学哲学者のマイケル・サンデル氏は、人類は傲慢になっていると指摘します。

マイケル・サンデル wikipediaより

奮闘努力する内に我を忘れ、与えられた恩恵など目に入らなくなってしまう。(中略)

こうして誤った認識が植え付けられる。すなわち自分ひとりの力で成功したのだと。

マイケル・サンデル

彼はエリート層の傲慢を砕くには、大学の入試をくじ引きにするしかないのでは?とその著書、Tyranny of merit で提案しています[14] 。

その必要はないのです。本投稿をお読みになった方はおわかりのように、大学入試よりもっと重要なくじ引きは、その人が生まれる少し前、大学入試の18年前に終わっており、その恩恵を認識するだけでいいのです。

我々は、運が良かったのだと思うことなしに謙虚にはなることは難しい。自分の実力で全て獲得したのだと思えば謙虚になる必要も、人に優しくする必要もないからです。

霊長類研究の第一人者である京都大学、山極寿一氏は、人類社会は急速にサル化していると警鐘をならします[15] 。

山極寿一氏 Wikipediaより

猿は序列を明確にします。上位のものは自分の実力でエサをとったと考えているので、ボスが部下にエサを分け与えることはしないのです。

ダーウィンという1人の天才が明らかにしたように、我々は猿から進化しました。共通祖先から別れたのも、たかたが数百万年前です。我々には、序列をつけたがる猿の習性が残念ながら残っています。(そういう意味で、自己責任論者も完全なる自己責任から免れうる。)
そういった社会を目指すというのも良いかもしれませんが、競争社会は人を不幸にし、また不健康にするというデータも数え切れないほどあり、個人的には目指すべき社会ではないのではないかと思います[16] 。

とは言うものの、遺伝学研究こそ、人に序列をつける学問なのではないのか?そう思う方もいらっしゃるかもしれません。数学ができる遺伝子は”優れた”遺伝子なんじゃないの?と思うかもしれません。

ですが、私は脳や遺伝について学べば学ぶほど、”優れた”遺伝子などというものは存在しないのでは?と思うようになりました。先程申し上げた、努力できる遺伝子は同時に複数の精神疾患のリスク であることもわかっています[17] 。努力できるということは同時に自分を追い詰められる人だから、なのかもしれません。

良い性格、良い遺伝子とか、多分そういうものではない。あなたの親にとって、家族にとって、上司にとって、友達にとって都合の良い性格、遺伝子というものがあるだけです。

“常識とは18歳までにかき集めた偏見のこと。”

アルバート・アインシュタイン

その人たちも、常識と言いつつ偏見に塗れています。

天才とは、求められたことが高い能力でできるという意味ではないのです。これは私の推測ですが、皆それぞれに向き不向きがあります。天才とは、たった短い数十年の人生でその向いているものに奇跡的に出会え、そして継続できる環境が与えられ、それがその時の社会にとって評価されるものだった人のことなのかもしれません。

私がジャニーズジュニアに入って、ARASHI!ARASHI!と頑張ろうと思っても、恐らく荒らしだと思われるだけでしょう

(親父ギャグを抑えられないのも、きっと年齢と遺伝的影響です。笑)

たとえあなたに一卵性の双子がいたとしても、遺伝子は微妙に異なります。繰り返しますが、あなた以外あなたじゃないのです。

この投稿をご覧になった方がご自身をもっと大切にされる。そういうきっかけになればとても嬉しいです。

脚注[1] Genetic associations with mathematics tracking and persistence in secondary school – PubMed

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