左脳欠如を見事に克服した44歳彼女に起きたこと
左脳欠如を見事に克服した44歳彼女に起きたこと
ランニングによって脳が変わるメカニズムとは?(写真:ブルーバックイメージ/PIXTA、Fast&Slow/PIXTA)
アンデシュ・ハンセン氏は著書『運動脳』で、運動で脳が「固まらない粘土」のように成形しやすくなると例えます。「大人の脳も成長する」が定着しつつある科学の世界から、私たちの脳の可塑性(変わる能力)について一部抜粋・再編集してお届けします。
■脳が半分しかない女性
運動は、脳の成長をストップさせる物質の働きを弱める。運動で何歳からでも脳を変えられることがわかってきた。
変化という脳の特性は、脳科学の専門用語で「神経可塑性」という。これは脳の最も重要な特質だ。子どもの頃ほど柔軟でないにしても、その特質が完全に失われることはない。今でもそれはそこにある――大人になっても、80歳になっても。
脳が柔軟で変化しやすいことを確かめるため、ここで44歳のアメリカ人女性、ミシェル・マックの身に起きたことを見てみよう。彼女の類まれな人生が、研究者の認識を変え、人間の脳に備わる可能性を教えてくれた。
ミシェル・マックは1973年11月、アメリカのヴァージニア州で生まれた。生まれてから数週間後に、両親は異変に気づく。ミシェルは物に視線を定めることができず、身体の動作は不自然で、とくに右腕と右足を動かすことに支障があった。両親は数え切れないほどの専門医にミシェルを連れて行ったが、誰一人彼女の症状を説明できず、脳のレントゲン写真を撮っても原因はわからなかった。
ミシェルは3歳になっても歩くことができず、言葉も遅れていた。かかりつけ医はもう一度X線検査を受けるよう勧める。最初に検査を受けたときよりも診断技術が進歩していたからだ。そして1977年、C A Tスキャンの結果に両親と医師は愕然とする。ミシェルの脳は左半球がほぼ欠落していた。
ミシェルはそれまで半分の脳で生きていたことになる。おそらく胎芽の段階で、何らかの問題が起きたのだろう。ミシェルの左脳は、90%以上欠けていた。
左脳は分析や論理的思考をつかさどり、数学的・言語的思考の中枢といわれる。いっぽう右脳は、芸術性や創造性をつかさどる場所とされる。左脳が受け持つ役割を踏まえれば、ミシェルが抱える問題の多くが腑に落ちた。言葉を正確に話せないのも、言語を処理する領域が欠けていることで説明がつく。そして左脳は(反対側の)右半身の動作をつかさどるため、右腕と右足を動かすのが難しいのも、なんら不思議はなかった。
しかし、注目すべきはこのあと彼女に起きたことだ。ミシェルは医師らが予想もしなかった速さで、欠けていた能力を見事に発達させた。同年代の仲間よりいくらか動作は遅いが、歩くことも話すことも読むことも、ある程度は普通にできるようになった。そして今、ミシェルはごく一般的な生活を送り、パートタイムの仕事もこなしている。
■常人には真似できない「記憶力」の発達
様々な検査によって、ミシェルは抽象的思考が不得意だとわかったが、反面、驚くべき記憶力に恵まれていることも判明した。年月日を無作為に選んで何曜日か尋ねると、彼女は即座に言い当てることができる。「2010年3月18日は何曜日?」と訊くと、すぐに「木曜日よ」と答えるのだ。
私たちの右脳と左脳は、脳全体がバランスよく機能するように助け合っている。だが、右脳も左脳も、単純に反対側に欠けているものを補うというわけにはいかない。もしどちらかの特定の領域が極端に発達したら、脳は全体のバランスを保つためにもう片方の働きを抑え込んでしまう。つまり、脳は特定の能力が極端に高くなったり低くなったりせず様々な能力が均一になるようにできている。
とはいえ、右脳と左脳が物理的に互いに情報を伝達できない場合には、脳全体のバランスを犠牲にして、ある種の能力を開花させることもある。まさに、これが少年キム・ピークに起きたことだ。彼は「脳梁」という右脳と左脳を連結する神経線維の束に損傷を受けた状態で生まれた。キムは4歳になるまで歩けず、重い発達障害があると診断された。しかしミシェルと同様、キムもまた誰にも予想できなかったスピードで障害を克服し、能力を発達させた。
5歳頃に文字が読めるようになったキムは、本を1冊読み終えるたびに表紙を下にして置いた。家中があっという間に表紙を伏せた本でいっぱいになった。ちょうどその頃からキムは並外れた記憶力を発揮し始める。読了した約1万2000冊の内容を何から何まで暗記していた。その上、キムは本の左右ページを同時に読むことができた。左のページは左目で、右のページは右目で文字を追うことができたのだ。
そしてミシェルと同じく、キムも特定の年月日の曜日を数十年後、あるいは数十年前であっても、たちまち言い当てることができた。彼のもとには、自分の誕生日が何曜日か尋ねる訪問客が後を絶たなかった。彼は瞬時に正しい答えを言うだけでなかった。「あなたは日曜日に生まれました」と言ったあと、こう続ける。「80歳になる日は金曜日ですよ」
ミシェルとキムの症例は異なるものの、両者には共通点がある。ミシェルは脳の左半球が欠落しているが、キムのように左右の脳が連結していないわけではない。しかし脳が半分欠けていることが、左右の脳が連結していないときと同じ影響をもたらした可能性は高い。つまり、不完全ゆえにある種の能力が制御不能なほどに高まって、人間離れしたレベルにまで発達したのだ。
■「脳変化」は誰でも起こせる
この2人は神経可塑性――脳が自らを再編成するという、すばらしい力を証明する実例だ。脳の構造と機能を変えられることは、もはや疑いようがない。そしてミシェルとキムだけでなく、あなたや私にも脳は変えられる。
では、どうすれば脳は変わるのか。そこで運動が関係してくる。脳の可塑性の研究では、体を活発に動かすことほどに脳を変えられる、つまり神経回路に変化を与えられるものはないとわかっている。しかも、特別長く続ける必要はない。20分ほどのウォーキングやランニングで充分に効果がある。
ランニングによって脳が変わるメカニズムはGABA(ギャバ、ガンマアミノ酪酸)と呼ばれるアミノ酸が関係している。GABAは脳内の活動を抑制して変化を起こらないようにする、いわば「ブレーキ」の役目を担っている。しかし体を活発に動かすと、そのブレーキが弱まる。運動によって、GABAの脳を変えまいとする作用が取り除かれるのだ。そうなると脳は柔軟になり、再編成しやすくなる。
脳を「固まらない粘土」と考えるなら、GABAのブレーキ作用が抑えられることで、粘土がより軟らかく、成形しやすくなるということだ。運動を習慣にしていれば、あなたの脳は「子どもの脳」に近くなっていくのである。
アンデシュ・ハンセン :精神科医