死とは何か

死とは何か

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

発売日が2018年10月 なので、三年以上前の本ではあるが、マインドアップロードについても記載があるみたいなのでよんでみることにした。

内容詳細:イェール大学で23年連続の人気講義が、ついに日本上陸!人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか
目次:
第1講 「死」について考える/
第2講 死の本質/
第3講 当事者意識と孤独感—死を巡る2つの主張/
第4講 死はなぜ悪いのか/
第5講 不死—可能だとしたら、あなたは「不死」を手に入れたいか?/
第6講 死が教える「人生の価値」の測り方/
第7講 私たちが死ぬまでに考えておくべき、「死」にまつわる6つの問題/
第8講 死に直面しながら生きる/
第9講 自殺


第1講 「死」について考える/

心(魂)と身体は切り離せるか

「二元論」物質的な身体と非物質的な魂がある。

「物理主義」魂は存在せず、身体があるのみ。人には心があるのを否定しているのではない。さまざまな精神活動(考えたり、感じたり、意思疎通したり、望んだり、記憶したり)ができるのは、明白だから。

この二つのかなり異なる形而上学的な見方のどちらが選ぶかが非常に重要であると、言われているが、私にはまだなぜ形而上学的な見方になるのかがわからない。

形而上学けいじじょうがくmetaphysics

基本的な哲学の仮説を批判的に考察し,存在するものはそれが存在するかぎり何であるかを明らかにしようとする哲学の一分野。「自然学書の次の書」を意味するギリシア語 ta meta ta physikaに由来し,形而上学という訳語は,『易経』繋辞伝からとられた。ヘレニズム期にアリストテレスの表題なしの著作を,ロドスのアンドロニコスがそのように呼んだのに始る。形而上学は論理学,認識論,美学,倫理学などの他の哲学的研究とも影響し合い,伝統的に幅広い哲学的な問題に関連してきた。最も基本的な問題は古代ギリシアの哲学者たちが最初に取組んだもので,形相の存在と本質,すなわち心の対象である抽象的な現実という問題である。ギリシア哲学者たちが現実の世界のもの (知覚できるもの) と心の対象 (観念) を区別して以来,形而上学者たちは抽象と物質の関係にたずさわり,両方が存在するのか,あるいはどちらか一方がもう一方より確かに存在するのかを確かめようとした。形而上学者は,自然界,時間と空間の重要性,神の存在と本質を解明しようとしたが,すべて形相と観念の関係を理解しようとする試みだった。
形而上学の主張はおおむね先験的な立場である。先験主義は,基本的で相互に矛盾のない仮説から出発し,それらを論理的な結論まで発展させる。この演繹的なプロセスの間に不合理が起れば,元の仮説を捨てるか,見直さなければならない。形而上学の結論は,その性質上あまりにも一般的でありとあらゆるものを含む主張なので,経験的事実を述べたものというよりは考え方の模範を示したものであり,それを反証を使って論駁するのは効果的な批判とはいえない。そのうえ,新しい知識が古い信念に取って代る経験科学とは異なり,矛盾する無数の形而上学的な理論はすべて時間の試練に耐えており,唯一の形而上学的な真理は存在しないという概念に立脚している。最初の形而上学者であるパルメニデスプラトンは,外観と実体の基本的な違いを認めた。プラトンは,変ることがないゆえに真実である観念の世界を支持して,知覚できる世界における移ろいやすくあてにならない現実を否定した。アリストテレスはプラトンの形相と質料の区別から始めて,生物学モデルを用いてこの2つを統合し,質料は常に潜在的な理想形相に向って動いている,と考えた。このようにして,物質世界は有機的な変化の連続体とみなされる。キリスト教の発展に伴って,哲学者たちは神の実在の先験的論拠を発見することに関心をいだきはじめた。トマス・アクィナスの形而上学に基づくトミズムは,アリストテレスの思想とキリスト教思想を結びつけた。トマスによると,日々の黙想 (アリストテレスによる形相と質料の関係の考察の基礎) は必然的に神の実在の理解につながり,物質世界を支える最も重要な要因である。有限で変転きわまりない物質世界を考察することによって,人はその変化の原因,つまり神に必ず導かれる。
形而上学の思想にもう一つの大きな転換をもたらしたのは,R.デカルトである。デカルトの二元論の哲学は,物質世界と精神世界を別個の独立した領域と定義した。キリスト教哲学者が提唱した神の概念を否定して,物質世界は主因によってつくられるが,その後は巨大な機械のように神の影響とはかかわりなく動く,とデカルトは仮定した。 I.カントは二元論は認めたがデカルトの理論は受入れず,知覚の重要性を示して形而上学に革命を起した。カントによると,物質的現実は時間と空間という人間のつくった構成概念を通じて知覚しなければならない。したがって,物質世界に対する見方は常に知覚のメカニズムによって影響を受ける。カントは初期の形而上学者が物質的現実と考えたものをそのように否定し,すべての観察を観察のメカニズムに従属させた。唯物論観念論は,精神と物質の概念を一つの理論のなかで統合しようと試みた。観念論者は,物質を精神に従属させることによって2つの領域を合流させた。唯物論者は正反対の立場をとり,精神を物質に従属させて,存在するのはすべて物質で精神は物質的な状況に依存すると主張した。
哲学者の一部は,形而上学の方法論と結論の有効性を問題にした。 D.ヒュームはあらゆる知識は知覚を通じて入ってくると主張し,すべての基本概念は知覚の経験から生れるのであって,純粋な思惟など存在しない,と結論づけた。 20世紀の論理実証主義は,すべての主張の意味はそれがどのように証明されるかに依存していると主張し,形而上学的主張には意味がないとの結論を下した。 L.ウィトゲンシュタインの批判によると,形而上学的経験は言語の範囲をこえたもので,物事には語ることのできることと,見せることしかできないことがあり,形而上学的な理論化は言語が明らかにできる範囲外の領域について語ろうとしているためにうまくいかないとしている。

心(魂)とか意識の話はまだまだ、哲学の仮説の閾を出ていないということだろうか。

 

「P機能(人格機能)」人は驚くべき物体であり、人格を持った人間は他の物体にはできない、ありとあらゆる種類の機能をはたすことができる。

魂の存在を信じるにふさわしい理由を提供することに成功していない。物質主義の立場が最も妥当に思える。
人は身体の死後も存在するというのはありえない。もし人が特別な形で機能している特別な種類の身体にすぎないのなら、身体が死んだときにその人も消滅して当然ではないか?

身体がすっかり古びれて死にかかっているときに、私の信念や記憶などを新しい代替の身体と脳に「アップロード」することが可能となったら、
アップロードの後、新しい代替の身体が私の信念や欲望や感情を持った状態で目覚めたとき、それは私なのだろうか?
身体説の人はノーと言わざるを得ない。それは違う身体だから、違う人(自分は私だと誤って考えている人)なのだ。だが人格説によれば、それは本当に私だということになる。なぜなら、肝心なのは、その人が私の人格を持っているからだ。


第2講 死の本質/

私が死んだのはいったいいつ?
「B機能(身体機能)」単に食物を消化したり、身体を移動させたり、心臓を鼓動させたり、肺を動かしたりと言った機能。

通常の場合 B段階の最後に死ぬ。
A段階 身体が誕生し、しばらくは、B機能は果たせてもP機能は果たせない。
B段階 B機能とP機能の両方が作動する。
C段階 身体は、存在しているがB機能とP機能の両方動作していない。死体。

異常な場合 D段階 病気で高次の認知プロセスがなくなる。
A段階 身体が誕生し、しばらくは、B機能は果たせてもP機能は果たせない。
B段階 B機能とP機能の両方が作動する。
D段階 P機能は失われたが、B機能は作動している。
C段階 B機能とP機能の両方動作していない。死体。
D段階では、どうなのだろうか。B機能は作動しているが、人格は消滅している。信念や記憶、欲望、恐れ、野心などに関しては何も存在していない。人格説によれば、もう存在していない。

「存在していないのに生きている人間」という矛盾

存在ではなく生きているかどうかを問う。存在していないのなら、生きてもいないのでは?
生きていないのにも関わらず、身体は生きている。

「人間」であるのは、私たちの人生の「ほんの一期間」

人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか。

第一の戦略「食べ、飲み、愉快にやれ。明日には、死ぬかもしれないのだから」

第二の戦略 人生のうち良いことの中でも際立って価値の高いものにも目をむける。

第三の戦略 大小の良いことを適切に取り混ぜることを目指す、というものだ。たしかに一方では、有意義な実績を特定の数だけ目指すべきだろう。それは、それが達成できれば人生の価値が高まるからだ。だかその一方で、同時に小さな目標もあれこれ加えるべきだ。人生から少なくても何かしらを得ることが保証されるように。

第一の戦略をベースに、第二、第三の戦略も取っていくかな。


今日が人生最後の日だったら、「24時間」をどう生きるか?
『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』

https://diamond.jp/articles/-/247840

 

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