
「意識」をいかに科学の俎上にのせ、解明していくか? 意識の本丸に挑む! 意識のアップロードの存在意義⑧
前回の連載では、意識の定義とその奥深い謎を扱った。今回は、その難攻不落にも思える意識をいかにして科学の俎上にのせ、解明していくかをお披露目したい。その先には技術としての「意識のアップロード」が待っている。
まずは、前回のおさらいから始めよう。
ご愛読、誠にありがとうございました。
本連載(全8回)は、大幅加筆のうえ、再構成し、2024年6月、
『意識の脳科学――「デジタル不老不死」の扉を開く』(講談社現代新書)として刊行されました。
主観と客観の間のギャップを埋めるには?
映画「ミクロの決死圏」ばりにミニチュアサイズのあなたが、わたしの頭蓋のなかに入ったとしよう。すると、ニューロン群が活動にあわせてほんの少しだけ大きくなり、シナプス間隙に神経伝達物質が放出される様子をあなたは目の当たりにすることになる。わたしの脳の客観的な側面、たとえば、リンゴを前にしたわたしがそれを視覚的に検知し、腕を操って掴み、そして口元に運ぶといった脳の情報処理のしくみについては、余すことなく解き明かすことができる。
一方で、そのときにわたしが体験する、目にしたときのリンゴの赤さ、手で掴んだときの重み、口にしたときの甘酸っぱさを彷彿とさせるものは脳のどこにも見当たらない。それらを体験するには、あなたの目の前に広がるわたしの神経回路網そのものにならなければならない。
しれっと記したが、意識の奥深い謎とは、まさに、神経回路網に「そのものになる感覚」が生じることだ。所詮は物質にすぎず、細胞の塊にすぎず、一風変わった電気回路に過ぎないのにもかかわらず。
脳の意識とは、客観的な立場=わたしの頭蓋のなかの「あなた」からすると到底宿りそうにないもの、それでいて、主観の立場=神経回路そのものである「わたし」からすると、なんら疑いの余地なく宿るものだ。
この客観と主観の間のギャップ(矛盾)は、数千年にわたり哲学者を悩ませてきた。「我思う、ゆえに我あり」の命題で知られるルネ・デカルトもそのひとりだ。彼の言う「我」とは、まさに、ここで言うところの「わたし」にほかならない。
我思う、ゆえに我あり
「我=わたし」は、今、みなさんがそうしているように、なにかに思いをめぐらしている時点で間違いなく存在する。一方で、デカルトには、その「わたし」が脳から生じているとはどうしても考えられなかった。そして、長い思索の末、「意識はこの世のものでないものとして、異次元の世界にぷかぷかと漂い、脳と交信することで身体を操っている」との、いわゆる、心身二元論にたどり着いた。
デカルトが意識との「交信係」として白羽の矢を立てたのは、脳のなかにただ一つ存在する松果体だ。ほぼすべての脳部位が左右にわかれて二つずつの組として存在するなか、松果体は脳の真ん中に一つだけ鎮座している。意識が一つであるのだから、それと交信する脳部位も一つに違いないと考えたのだ。

デカルトの心身二元論は、今日、“トンデモ仮説”のレッテルを貼られ、大真面目にこれを唱える科学者や哲学者はごくわずかしかいない。一方で、脳のしくみについて皆目検討のついていなかった17世紀にあって、デカルトが心身二元論を説いたことを責めることはできない。むしろ、客観と主観の間のギャップをよくよく理解していたからこそ、脳が意識を生むとの考えを放棄せざるをえなかったのだろう。
デカルトの時代から400年、近代科学の誕生と進展により、客観と主観の間のギャップは果たして狭まっただろうか。不思議に思うかもしれないが、実のところ、そのギャップは広がったとさえ言える。脳の神秘のベールが剥がされることで、問題が先鋭化したのだ。哲学者レヴァインの言葉を借りるなら「説明のギャップ(Explanatory Gap)」、哲学者チャーマーズの言葉を借りるなら「ハードプロブレム(Hard Problem)」。表現の違いこそあれ、未来永劫、人類には解決することのできない問題とのニュアンスが色濃く漂う。
では、科学の最後のフロンティアを前にして、わたしたちは指をくわえてみているしかないのだろうか。
決してそうではないとわたしは考えている。あるひとつの割り切りを行うことで、意識を科学の俎上にのせることができる。その割り切りとは、意識の科学に「自然則」を導入することだ。
光速度不変の原理
「光速度不変の原理」をご存知だろうか。読んで字のごとく、光の速さが変化しないことを謳う自然則だ。これを例に、自然則の成り立ちとその意味合いについて考えてみよう。
光の速度が変わらないということは、逆に言えば、光以外のふつうのモノは速度が変化することになる。いったいどう変化するのだろうか。
一定速度で走る新幹線のなかで、通路前方にキャッチャーを座らせ、プロ野球のピッチャーが進行方向に向けてボールを投げたとする。新幹線の速度は時速320km、球速は時速160km。当然のことながら、座席にすわる乗客からみた球速は、まんま時速160kmとなる。
では、河原に立ち、鉄橋を渡る新幹線を外から眺めた場合はどうだろうか。球速に新幹線の速さが加わり、都合、時速480kmの超剛速球として観測されるだろう。
つまり、モノの速さは観測者の動きに依存して変化することになる。高校物理に登場する「相対速度」を持ち出すまでもなく、ごくごく当たり前の感覚として理解できるだろう。
ただ、その当たり前が光には通用しない。
さきほどの新幹線を光速で巡航するロケットに、ピッチャーの投球を懐中電灯の光におきかえてみよう。ロケットの乗組員の視点に立てば、懐中電灯から発せられた光が、光速で前方に進むことに変わりはない。問題は、宇宙ステーションの窓から光の速さで通り過ぎるロケットを眺める者がいったい何をみるかだ。
さきほどの新幹線の場合と同じように、ロケットと光の速度が足されてしまったら、懐中電灯の光は光速の二倍で進むことになってしまう。「光速度不変の原理」によれば、それは起きない。
では、代わりに何が起きるのだろうか。驚くなかれ、宇宙ステーションの中からみて、ロケットの中の時間が止まってしまうのだ。懐中電灯を点灯しても光は一向に前に進まず、そればかりか、点灯するその行為すら永遠に発生しない。
意識に負けず劣らずの変態ぶりと言えよう。