夢の「新型ブレイン・マシン・インターフェース」で意識を解き明かす

意識のアップロードの存在意義⑥

ここまで引っ張ってしまい申し訳なかったが、いよいよ、わたしの提案する「死を介さない意識のアップロード」の重要な鍵をにぎる「新型“超絶侵襲”ブレイン・マシン・インターフェース」(東京大学より特許出願済み)を導入する。

それと同時に、なぜに脳外科手術を受けてまでして、そんな代物を自身の頭蓋のなかに入れたいかをみなさんに伝えたい。(実のところ、「死にたくない」との思いは、文字通り“二の次”だ。)そのためには、意識の何たるかをまずは知ってもらう必要がある。

本連載史上最高難度とはなるが、最後に重要なお知らせもあるので、ぜひくらいついてきてほしい!

第一回記事はこちら『ヒトの意識をコンピュータへ移植することはできるか?』
第二回記事はこちら『生きたまま、ヒトの意識をコンピュータに移す方法とは?』
第三回記事はこちら『ヒトの意識をコンピュータに移したら、どんな世界が待ち受けているか』
第四回記事はこちら『イーロン・マスク率いるニューラリンク社が開発するロボット義肢とは』
第五回記事はベンチャーを大きく育てるしくみを作らないと、日本はマジつぶれる!

ランチディスカッション

カフェテリアで昼食を食べながらじっくりと議論する。長く、ときには辛い動物実験からの現実逃避をかねて。

それが独マックス・プランク研究所の同僚たちとの、一日の束の間の楽しみだった。日本人のわたしに加え、ドイツ人、イギリス人、イスラエル人と国際色豊かな面子で、話題はラボのゴシップから世界情勢と多岐に渡り、ときには、歴史絡みの辛辣なジョークも飛び出した。

2011年の秋、その議論の時間を一週間ほど“ジャック”したことがある。長年取り組んできた研究プロジェクトが一段落し、新たな研究構想の相談にのってもらったのだ。

その新規構想には、研究所のボスであるニコス・ロゴセシスの研究アプローチがおおいに影響した。
脳神経科学をひとつの森にたとえるなら、ロゴセシスは、何本もの新たな木を植え、そして育ててきた。一方のわたしはというと、先の研究プロジェクトにしても、彼の植えた木にせっせと葉をつけてきたにすぎない。ロゴセシスの傍に身を置き、そのスケールの大きさに感銘を受け、せめて一本、自分でも苗木を植えてみたいと切望するようになった。

ちなみに、わたしが植えようとした苗木のすぐ横には、ロゴセシスが80年代後半に樹立した「意識の科学」がそびえている。平たく言えば、長年、意識研究に携わってきたなかで、その枠におさまらないものを望んだことになる。


 

そもそも意識とは?

従来の「意識の科学」の枠におさまらないとは、いったいどういうことか?それを理解するためには、まずは、意識の何たるかを知ってもらわなければならない。

意識とは何か?(photo by GettyImages)

実は、ここまで意識をきちんと定義せずに話を進めてきた。半ば確信犯的に。

一読一聴しただけでは把握できず、一定期間の自問自答を要するからだ。誤解を恐れずにいえば、ある種の悟りが訪れるのを待つことになる。

しかも、プロの神経科学者といえども、イニシエーションから悟りに至るまでに半年以上かかることもあるくらいだ。のっけから、そんな苦行を読者のみなさんに課すわけにいかないだろう。

ただ、虎の子の新型ブレイン・マシン・インターフェースを披露するにあたり、いよいよ、意識の定義を避けてとおるわけにいかなくなった。

なぜに、脳外科手術を受けてまでして、自分の頭にごっついブレイン・マシン・インターフェースを挿入ようとしているのか(動物実験等を経て、まだだいぶ先の話にはなるが!)。もちろん、初回連載で触れたとおり、わたしの死にたくないとの思いは本物だ。ただ、それ以上に大きな理由がある。

そうでもしないと、意識の解明が叶わないからだ。

では、そこまでして解き明かしたい意識とはそもそも何なのか?

哲学者のトマス・ネーゲルによれば、意識とは、ずばり、“Something that it is like to be(何かになった感覚)”である。

わたしたちの脳には、脳になった感覚がある。

網膜からの視覚入力を受け、その信号が脳の神経回路を通りぬければ、脳には“見える”との感覚が生じる。対象の形や大きさ、そして位置を推定しようとする視覚の機能のことを言っているわけではない。その機能が発現したときにわたしたちに生じる、まさに、“見えている”としかいいようのない感覚だ。

同様に、蝸牛管からの聴覚信号が、脳の神経回路を通りぬければ、脳には “聴こえる”との感覚が生じる。加えて、悲しい物語に触れれば “悲しい”、難しい意思決定に直面すれば “悩ましい”との感覚が生じる。

たった今、この記事を目にしているあなたの脳にも、脳になった感覚が間違いなく生じている。まさに、記事が“見えている”との感覚が。難しく考える必要はない。ディスプレイの白い背景に浮かぶ黒い文字が“見えて”いるだろう。ただ、それだけのことだ。


意識の国のアリス ――脳とは私であり、私とは脳

みなさんの狐につままれたような顔が目に浮かぶ。それが意識だとして、それがなにか?と。では、いよいよラビット・ホール(「不思議の国のアリス」における”うさぎ穴”)へとご案内しよう。

脳とは私であり、私とは脳だ。(意識が脳から生まれるのではなく、異世界にプカプカ漂っているとする「二元論」の立場をとらないかぎり……)。

ゆえに、前節の“脳”は、すべて“私”に読み替えることができる。「“私”に見えている、“私”に聴こえている……」。こうすると、一見、当たり前のことしか言っていないように思える。

生まれてこの方、世界を見て、聴いて、喜怒哀楽の感情とともに過ごしてきたあなたに、それらの感覚こそが意識であり、その根底には、現代科学では説明のつかない深遠なる謎が横たわっていると今更説いても、にわかには信じられないだろう。

ただ、ここで断言しよう。脳に、脳になった感覚(意識)が生じるのは、全くもって当たり前のことではない!

マリー・アントワネットにとって当たり前のものであったケーキが、当時の庶民には当たり前でなかったように、脳が、脳になった感覚を持つのは決して当たり前のことではない。

ただ、マリーであるあなた、意識そのものであるあなたは、なかなかそのことに気付かない。

脳以外で「何かになった感覚」は成立するか?

意識の定義と、その意識が脳に宿ることの不思議は表裏一体の関係にある。脳に意識が宿ることの不思議を感受したとき、悟りの瞬間があなたに訪れる。

その悟りへの扉をあけるひとつ目の鍵は、すくなくとも現時点においては、脳以外の何かに、何かになった感覚が発生している可能性が限りなく低いことだ。

たとえば、スマホのカメラに“見える”といった感覚は生じているだろうか?もちろん、映像をデータとして残したり、顔を検出してレンズを駆動し、そこにピントをあわせたりなんてことは平気でやってのける。ただ、そのとき、わたしたちと同じように、スマホには世界が“見えて”いるだろうか?

脳には「感覚」があるがスマホにはそれがない(photo by GettyImages)

スマホは、スマートフォン(利口な電話)というくらいなので、その中身がどうなっているのかちょっと想像がつかない。ひょっとして、わたしたちと同じように世界を“見ている”と思われる方もいるかもしれない。

では、旧式のラジオならどうだろうか。蓋を開ければ、抵抗やらトランジスタやらコンデンサやらが銅線で結ばれた電気回路がところ狭しと押し込まれている。

このラジオがアンテナで電波を受け、信号を電気回路で処理し、スピーカーから音声を出力したとき、ラジオにその音声を“聴いている”感覚は生じているだろうか。

では、最後にもうひと押し。

コップの中の水はどうだろう。その水がコップの中に閉じ込められて窮屈だなとか自身のよく冷えた温度にくらべて部屋が暑いなとか、感じたりするだろうか?はたして、コップの中の水に、水になった感覚は湧くだろうか。

一方で、脳に、脳になった感覚が宿るのは厳然たる事実だ。「ちょっとなに言っているかわからない」。そんな心の声も脳になった感覚のひとつである。

脳には間違いなく存在し、他のものにはおそらく存在しない「何かになった感覚=”Something that it is like to be”」。これこそが哲学者や神経科学者が定義するところの意識だ。


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