「円満退職」「好きなことをして生きる」という幻想 辞めるのにいい人に思われようとするな

(写真:Fast&Slow/PIXTA)© 東洋経済オンライン (写真:Fast&Slow/PIXTA)

どんなにブラック企業に勤めていようとも退職するとなったら「円満に辞めたい」と思うのが人というもの。しかし、『反応したら負け』の著者である漫画家・コラムニストのカレー沢薫は、円満でもバックれでも、後の人生に影響はないと指摘する。その真意とは?

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「希望はないが、今生きていくことは可能」

退職の目的は「退職」、円満ではない

最初に答えを言うなら「円満退職しようとするな」である。もちろん「社長室で手首を切って救急車と共に会社を退場しろ」と言っているわけではない。ここで考えるなと言っているのは、「会社にとっての円満退職」である。

むしろ会社にとって円満にようとすると、自分はどんどん円満でなくなり、最悪「辞められない」という事態になりかねない。最悪、「このままでは死んでしまう」と思ったら次の日にバックれるのが自分にとっての円満退職である。

もちろん会社にとっては全く円満ではないのだが、会社が円満になるようにしようと思ったら、辞表を出すストレス、引き留めという名の脅迫に遭うかもしれないストレス、退職日まで「懲役1カ月の実刑」を食らうストレスなど、越えなければならない山が多すぎて道中で命を落としてしまうかもしれない。

何よりその険しい山道を想像して「とても越えられる気がしない」と、退職自体を断念してしまっている人も結構多いのだ。

このように「円満退職する気力がない」という理由で、会社が辞められずそのまますり減り続ける場合もあるため、退職の目的はあくまで「退職」であり「円満」はマストではないと肝に銘じることが、自分にとっての円満退職の第一歩だ。

しかし、マジメな人ほど会社にとっての円満にこだわり、会社に言わせれば「無責任な奴」が早々にヤバい会社を退職して、次の人生を開始している中、タイタニックの船長のように「私が逃げるわけにはいかぬ」と会社と心中してしまうのだ。

おそらく「自分が辞めてしまったらみんな困る」と思って辞められないのだろうが、それはむしろ自意識過剰である。

リアル大黒柱として会社を物理的に支えていたなら別だが、一人社員が抜けて会社がつぶれることはほとんどない。確かに、一時期は大変かもしれないが、すぐに平常運転に戻る。

それに、タイタニックの船長が残ったのは船の責任者だからである。会社の責任者でもないのに責任を負おうとするのはすでに慈善事業であり、仕事ですらなくなってしまっている。

円満でもバックれでも、後の人生に影響はない

そもそも、退職する時点で大なり件なり会社や残る人間には負担をかけているのだ。そんな退職をすると言っておいて円満にしたいというのは、殴った後でハンカチを差し出す程度のことでしかなく、たとえ殴ったあとに唾を吐こうがキスをしようが、殴ったことには変わりはない。

また、残った人に悪く言われたくないから円満に退職したいと思っているかもしれないが、正直それは不可能である。結婚や出産という非の打ちどころのない円満理由で退職したものでさえ、陰で「この忙しい時にヤってるなよ」という陰口を何度も聞いたことがある。

しかし何せ退職しているため、その陰口が自分の耳に届くことはない。届くとしたら、辞めた会社にわざわざ聞きにいくマゾヒズム行為をした時だけだ。

そしてたとえバックれ同然で辞めて、残った者の恨みを買っていたとしても、後の人生で恨みを晴らされたということはないし、正直辞めた会社の人間と再会することすらまれである。

つまり「円満退職」だろうが、バックれだろうが、後の人生にはあまり影響がないのだ。だったら、出来るだけ低コストかつスピーディに辞めた方がいい。

そもそも「円満退職」自体、「円満離婚」と同じく、ちょっと無理がある言葉であり「存在しない」と言っても過言ではない。

存在しないものを追いかけていたら、いつまでたっても辞められないに決まっているし、途中で疲れている。辞表を出して嫌な顔をされ、1カ月微妙な空気の中で引継ぎをして辞めるという、どこにでもある退職をするしかないのだ。

給料以上は悩まない

私は会社員時代「終身名誉平社員」だったため、会社内で体験できる地獄の種類も深さもたかが知れていた。登らなければ転落も出来ないように、地獄に落ちるにも本人のレベルにあった地獄にしか落ちられないのである。

この何年いても地位が不動、むしろ新人にまで敬語で接して一歩下がることまであることに関しては、私の右に出る者はいないと思っていたのだが、同級生に同じところで5年バイトをしているがいまだに「研修中」の札が取れていない奴がいると聞いて、改めて世界の底の深さを思い知った。

横領で逮捕されたくても、まず「横領できる立場」にまでいかなければ不可能なのである。つまり、仕事上の悩みが多いということはそれだけ社内で重要な地位にあるということだ。

もし、バイトだし研修中の札が取れない、むしろ若葉マークが増えたのに、派閥争いに巻き込まれ、上司の代わりに出頭することになったという場合は「割にあってない」のだ。「給料以上は働かない」のが大事なように「給料以上は悩まない」というのも重要である。

とりあえず、家に帰っても会社のことで悩むというような「サービスストレス」は意識的にやめるようにしよう。

だが最近は、給料は変わらないのに責任が重くなり悩みばかりが増えるというエア出世が増えているようで、出世したがらない若者が増えているようだ。

同時に「仕事は最低限にとどめ、好きなことをして、ゆとりのある生活をしよう」という提唱もよく聞くようになった。しかし、識者に言わせるとこれを真に受けると、高齢フリーターか、親の年金支給日を「給料日」と呼ぶ無職中年になるおそれがあるという。

「好きなことをして、ゆとりのある生活」とは「そこらへんの雑草を食う生活」という意味ではないはずだ。もちろんそこら辺の雑草を食うのが好きな人もいると思うが少数派なはずである。

つまりその生活ができるのは、最低限の仕事でゆとりある生活を出来るだけの資金を作れる才能がある人であり、こういう人は会社にいても普通にできる人間だと思われる。

会社でデキない奴がそういう暮らしをやろうとすると、「最低限の仕事でゆとりのある生活」ではなく「最低限の生活」というかなりコンパクトに略された、ある意味ミニマリスト生活をすることになってしまう。

「生きる手段に殺される」より「雑草食って生きる」

会社で悩み過ぎるのも馬鹿らしいが「まったく悩みのない世界」を目指して飛び出すと、もっと悩む結果になりがちなので、多少の悩みならやりすごして会社に留まろうとすることも大事である。

だがいざとなったら、雑草を食うことになっても、会社を飛び出す勇気というのも必要である。

仕事は基本的に生きる手段である。だがいつの間にか仕事による負担で命を脅かされるという本末転倒も珍しくない世の中になってしまった。仕事に人生をかけるのはいいが、「生きる手段に殺される」よりも「雑草食って生きる」の方が理に適っているということだけは忘れないで欲しい。

 

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