「今日の仕事は、楽しみですか。」”炎上→即謝罪”を歓迎するSNS社会の末路
「今日の仕事は、楽しみですか。」”炎上→即謝罪”を歓迎するSNS社会の末路
「あまりにも風刺が効いている光景」だった
——なにげない問いかけが、たちまち大きな炎となった。
きっかけは10月4日、東京のターミナル駅のひとつであるJR品川駅の長いコンコース、SNSでの通称は「社畜回廊」のディスプレイに表示された「今日の仕事は、楽しみですか。」という広告だ。
これはユーザベースグループのアルファドライブが展開する「AlphaDrive/NewsPicks」によるものだ。「今日の仕事は、楽しみですか。」という言葉がずらりとディスプレイに並んでいる画像を、アルファドライブCEOがツイート。その画像がSNSで拡散された(※投稿はすでに削除されている)。
私も拡散された画像を見たひとりだ。「今日の仕事は、楽しみですか。」——と、何枚ものディスプレイにずらりと表示されているその光景は圧巻の一言だった。だれひとりとして顔を上に向けて広告を見ておらず、ややうつむき加減で会社へと急ぐ群衆とのコントラストが相まって、この写真にはひとつの社会風刺的なアート作品としての雰囲気すら漂っていた。
私はあまりにも風刺が効いている光景に思わず笑ってしまった。「仕事意識の高い人が、失意のなか通勤する人が多いであろう朝の品川駅の雰囲気にそぐわないポジティブなキャッチコピーを掲載してみたところ、偶発的にディストピアっぽい画が撮れてしまった」という顛末は(広告出稿者の本来的な意図とはまったく違うだろうが)これはこれでひとつの「芸事」としては綺麗にオチがついている。
「仕事がつらい人の気持ちをまるでわかっていない」と非難の声
ところが、私のように「クスっと笑えるネタ」という感想を持った人はそれほど多数派ではなかったようだ。
広告出稿者のツイートに添付された写真をタイムラインで見つけたSNSの人びとは、心中穏やかではなかったようだ。広告の全体像を知ることなく、このキャッチフレーズのみが広告のすべてだと早計に勘違いしてしまったせいもあるのだろう。広告に対して多くの非難の声が寄せられ、たちまち「炎上」状態になってしまったのである。
「自死を迷っている人に『最後の一押し』をする表現だ」
「仕事がつらい人の気持ちをまるでわかっていない」
「大勢の人が不快に思っているのだから取り下げるべきだ」
「こんな表現は社会的に許されるものではない」
といった憤りの声が相次ぎ、当初1週間の掲載を予定していたところ、わずか1日で広告を取りやめることになった。また、企業のページおよび代表ツイッターアカウントには謝罪文も掲載された。
——そう、すっかり令和の風物詩としておなじみの「キャンセル・カルチャー」である。
広告の「つかみの部分」に過ぎなかった
ユーザベース『AlphaDrive/NewsPicksの広告掲載について』(2021年10月5日)より引用
「広告掲載→SNSで炎上→掲載中止→謝罪」という一連の流れ自体には、特に真新しさはない。SNSでひたすら繰り返され、令和になって加速度的にその件数を増やしてきた「キャンセル」の典型例だ。
しかしながら、下のツイートに載せられた動画を見てほしい。これを見ると、「今日の仕事は、楽しみですか。」という言葉が表示されるのは広告全体の「つかみ」の部分に過ぎず、直後には画面がスクロールして「仕事を楽しいと思える人を増やしたい(そのお手伝いをしたい)」というメッセージの核心部に続く内容だったことは付言しておきたい。広告の全体像を踏まえてもなお「不適切」かどうかは大いに再考するべきだろう。全体像を見て「勇み足だった」と反省する人がいるとしたら、私はそうした人をたたえたい。
転職の広告もマッチングアプリの広告も「不快」になりうる
いずれにしても、この程度の《刺激性》のある表記で、傷ついたや取り下げろといった非難の嵐が起きることも、またそれにすぐさま応じてしまう企業側の弱腰も、両者が二人三脚でこの社会の「息苦しさ」「閉塞感」を加速させていることは、ここではっきりと指摘しておかなければならないだろう。
ありとあらゆる人にとって「侵襲的でない」「不快感のない」コンテンツなど存在しえない。自分にとって快適な表現は、だれかにとっては不快なのである。その逆もしかりだ。いくら配慮を重ねたところで、全員が笑顔になれる「満額回答」など存在しない。
たとえば「仕事がつらくて、死を考えるくらいに追い詰められている人」からすれば、今回の広告にかぎらずキャリアをポジティブに考える転職事業会社の広告はすべて「加害的」であるだろう。耐えがたいほどの孤独感に苦しんでいる人からすれば、マッチングアプリの広告はすべて「暴力的」な表現に見える。
お金がない人からすれば、自動車や旅行の広告は自分を軽蔑されている気分になるだろうし、酒に酔った暴漢に殴られた経験のある人からすれば、アルコール飲料の広告も許しがたい加害煽動に見える。なにかを表現する際には、だれかの抑圧感や被害意識にいちいち配慮して、これらを刺激しないようにしなければならないのであれば、結局はなんの表現も世に出すことはできなくなってしまう。
これでは「表現の自由」も形無しだ
今回の騒動はもちろん憲法上の「表現の自由」の問題などではない。しかし市民が多少の不愉快さや感情的動揺を根拠にして「社会的に望ましくない」「取り下げるべき」などと表現者に対して究極的な措置を要求したり、企業側がそのようなヒステリックな声に弱腰に従ったりしてしまうことは、市民社会のなかにある「表現の自由市場」を委縮させ、その実質性を損なう行為であることを、表現を生業とする者は肝に銘じておかなければならない。いわゆるインフルエンサーなど世間に対して表現を発信する者が、多少の批判や非難を受けたくらいで誹謗中傷だの裁判だのと言い募るのも、市民社会の自由な表現の場を委縮させるという点では同じことだ。
国家権力からもぎとった「表現の自由」を、精神的な脆弱性や性急に処断を求める思慮の浅さによって、自分たち自身で損なうような真似をためらいなくするようでは、せっかくの「表現の自由」も形無しである。そのようなふるまいをする未成熟な者たちにとって、近代社会の「自由」という概念は過ぎた代物だったと言わざるを得ない。
「市民の感情」はSNSで驚異的な権力になった
SNSが人びとにとって当たり前のコミュニケーションインフラとして普及したことによって、望むと望まないとにかかわらず、人びとはある種の「政治性」を持つようになった。
自分ひとりのちょっとした不快感の吐露が、ふとしたきっかけで多くの人びとの共感・共鳴を得た場合、それはもはや個人的な問題ではなくて社会的な問題となり、そして社会的な問題が場合によっては政治的な問題にすら発展してしまう。たとえるならば、すべての人がSNSを介して、いうなれば「市民の感情」という巨大な権力の源にアクセスしている状況となっている。
SNSによって統合された「市民の感情」は、ときには個人的な問題を政治的な問題にまで昇華させる力となることもあれば、個人の社会的生命を完全に破壊する獰猛な姿を見せることもある。これは旧来の社会には存在しえなかった驚異的な権力である。人間社会に「法秩序」のルールを築いた近代の人びとは、現代社会におけるこのような力の誕生を予想してその設計図を描いてなどいなかった。
SNSによって統合され、社会や政治を揺るがすほどに大きな影響力を持つようになった「市民の感情」を、当の市民社会が適切に制御しきれているとは私はまったく考えていない。もし十分に制御しきれているならば、駅にほんの一瞬だけ表示される「今日の仕事は、楽しみですか。」程度の広告表現を、寄って集って叩き潰すような真似はしていないからだ。
SNSによる「巨大な感情」に統制される人びと
SNSによって凝集された「市民の感情」の力は、年々その力の制御が困難になりつつある。いや、傍から見れば、すでにほとんど暴走しているようにも見える。
自らの快/不快といった好悪感情をためらいなくSNS上に投射して社会正義/不正義の問題に接続しようとする一部の人は、「市民の感情」の力を社会の規範体系や法秩序と折り合いがつくレベルにとどめようとはまったく考えていない。むしろその力を強めて、自分の望ましい方向へと使役しようと考えている。
個としては脆弱で、これまで自分ひとりでは社会になんの変化を及ぼすことのできなかった名もなき人びとがいま、SNSによって社会に大きな変化を及ぼす力を得た。人びとはその力によって、喜び勇んで無邪気に「世直し」をしている。《みんな》を不快にさせるような広告を取り去り、《みんな》に迷惑をかけるような人間を制裁し、《みんな》が安心して暮らせないような異物を取り除いている。スマートフォン越しに「けしからん人物や事象」に制裁を加え、今日の自分はとてもよいことをした、と満足しながら眠りにつく。
ディストピアSFのフィクションでは、巨大な人工知能や闇の世界政府が人びとを統制・監視するが、現実世界ではSNSという電子的空間で産声を上げた「巨大な感情」が人びとを統制しようとしている。
私からすれば、SF小説などフィクションのなかで描写される「ディストピア」よりも、SNSによって結集された「市民の感情」によって、人間のインプットもアウトプットもひたすら「美しく」「清く」「快く」「ただしく」浄化されていくこの現実(と、その現実になにも疑問を持たない人びとの有様)の方が、よほどディストピアであるように見える。