第11回 社会的葛藤
第11回 社会的葛藤
対人関係や集団間関係は、両者の利害が影響し合う相互依存状況であり、利害の対立によって様々な葛藤が生じる。このような対人間および集団間の社会的葛藤が、どのような利害の構造や動機に基づいて生じるものかについて考察する。また、会社などの組織で生じる葛藤を解決する手段の一つとして、リーダーシップに着目する。
【キーワード】
社会的葛藤、社会的ジレンマ、内集団ひいき、最小条件集団パラダイム、リーダーシップ
1.対人葛藤
(1)相互依存状況
囚人のジレンマ 心理学実験のページでも補足的にご紹介したゲーム理論の1つ『囚人のジレンマ』のまとめです。
応報戦略(しっぺ返し戦略):初回は必ず強力し、二回目以降は、1つ前の回に相手がとったのと同じ選択をするという単純な戦略(アクセルロット 付き合い方の科学)
(2) 社会的ジレンマ
「共有値の悲劇」:ハーディン 誰でも自由に利用できる(オープンアクセス)状態にある共有資源(出入り自由な放牧場や漁場など)が、管理がうまくいかないために、過剰に摂取され資源の劣化が起ること。ギャレット・ハーディン(アメリカ、1915-)の著書「共有地の悲劇」によって提唱され、反共産主義への理論的根拠ともされた。例えば、共同牧草地において、個々の農家はより多くの利益を求めている。そのため、他の農家より一頭でも多くの家畜を放牧することをお互いにしてしまうため過剰放牧がおこり、すべての農家が結果的に共倒れしてしまうという。日本の入会地では各種のタブーやアニミズム思想がコモンズの悲劇を防いだともいわれている。地球温暖化やオゾン層の破壊など地球環境問題も地球というグローバル・コモンズにおける共有地の悲劇であるとみなすことができる。
公共財問題(マグロの乱獲) 相応のコスト フリーライダー(ただ乗り)、枯渇を加速させる
3者以上の対立では、応報戦略がうまく機能しない。
2.集団間葛藤
(1) 集団に関する知覚的バイアス
社会的カテゴリー化、同化効果、対比効果
外集団同質性効果
他人種効果
(2) 内集団ひいき
(a) 現実的集団葛藤理論 限られた資源をめぐって集団同士が競合する場合に集団間の葛藤が生じる
サマーキャンプの実験(泥棒洞窟実験)
第一段階 内集団の形成 規範、独自の合図など
第二段階 利害対立により集団間葛藤の導入 敵対感情、攻撃行動、集団擬集性
第三段階 葛藤の解消 共通の上位目標を設定した。
(b) 社会的アンデンティティ理論 集団間で現実的な理論利害対立や、成員間の相互作用すら存在しないような場面でも内集団ひいきは生じる
最小条件集団パラダイム 最小条件集団実験
社会的アイデンティティ理論
・社会的比較理論を集団間の関係に適用
・特定の社会的カテゴリーの一員であるという知識は、自己概念の一部を構成している(社会的アイデンティティ)
・人は自己高揚動機を持っている
→内集団の地位を外集団よりも優位に保つことは、望ましい社会的アイデンティティと自尊感情の高揚につながる
(c)閉ざされた一般互酬仮説
・最小条件集団パラダイムは、実際には相互依存状態であり互酬性(返報性)が期待されていた可能性があることに着目
・相互依存状況が存在する集団内では、集団成員は互いに助け合うものだという一般互酬性が成り立つ
・閉ざされた関係性の中では、他者に与えた恩恵が回り回って自分に返ってくることが期待される。
・つまり、内集団ひいきは、内集団成員に利益を与えることで間接的に自分の利益を増やすことが目的
・外集団成員の冷遇はその副産物
(3) 集団間葛藤の解消
接触仮説(Allport,G.W.,1954)
再カテゴリー化
下位カテゴリー化
脱カテゴリー化
3.組織内葛藤とリーダーシップ
(1)組織内葛藤
(2)リーダーシップ
(3)近年のリーダーシップ研究
コンティンジェンシー・アプローチ(状況即応アプローチ)
シェリフ サマーキャンプ(泥棒洞窟)の実験 (集団間に葛藤が生じる理論)
第一段階 内集団の形成 規範、独自の合図など
第二段階 利害対立により集団間葛藤の導入 敵対感情、攻撃行動、集団擬集性
第三段階 葛藤の解消 共通の上位目標を設定した。
山岸は、「この実験によって、賞品などをめぐっての争いが集団間葛藤を生むこと、そして葛藤を解消するには、集団間の接触機会を増やすよりも、協力して何かを達成するという集団を超えた目標の導入が必要であることがわかったのである」とまとめている。
このグループを、国家や民族や企業や学校や政党などに置き換えて考えてみれば、なかなか面白い実験であると言えよう。もちろん、これらグループ(集団)間の対立を解消する試みが、実験のようにはうまくいかないのは当然だとしても、敵対的競争から協力への道筋を考えることが肝要であることは、いくら強調しても強調しすぎることはないだろう。
世界の現状は、おそらく何百年~何千年も第2段階のままであり、第3段階の芽が若干見られる程度である
以下もう少し詳細な内容にふれようと思ったのだが、本書の後の部分で関連事項が出てくるので、そこでみることにする。
「衝撃!」実は嘘だらけだった有名心理学実験【泥棒洞窟実験・スタンフォード監獄実験】
1954年6月19日、オクラホマ市のバス停で、12歳前後の少年12人がバスを待っていた。
誰も互いを知らないが、全員が善良で敬度なキリスト教徒の家庭に育った。知能指数は平均的で、学業成績も平均的だった。
問題児もいじめられっ子もいない。全員が心身ともに健康な普通の子どもである。もっとも、この日の彼らは興奮気味だった。
これからオクラホマ州南東部のロバーズ・ケーブ州立公園に行き、サマーキャンプに参加するからだ。
このキャンプ地は、ベル・スターやジェシー・ジェームズのような伝説的な無法者の隠れ家になったことで知られ、およそ200エーカーの広大な森林地帯に湖や洞窟が点在する。
少年たちに知らされていないのは、翌日、他の少年の一団がやって来て、このパラダイスを分かち合わなければならないことだまた、このキャンプが実は科学実験だということも知らされていなかった。
彼らは実験のモルモットだった。この実験を統括したのは、トルコ生まれの心理学者ムザファー・シェリフだ。
かねてよりシェリフは、集団間の対立がどのように生じるかに興味を持っていた。
このキャンプは入念に下準備され、研究チームへの指示ははっきりしていた。少年たちは好きなことを自由に行うことができ、何の制限も受けない、というものだ。
最初の段階では、どちらのグループも、もう一つのグループの存在を知らない。彼らは別々の建物で過ごし、公園には自分たちしかいないと思っている。
そして2週目になると、12つのグループは慎重に引き合わされる。
どうなるだろうか。彼らは仲良くなるか。あるいは、騒動が始まるか。このロバーズ・ケーブ実験は、後にシェリフが「最良の子どもたち」と表現した品行方正な少年たちが、ほんの数日で「邪悪で、心がすさんだ、乱暴な子どもの集団」になることを示した。
行われたのは、ウィリアム・ゴールディングが 『蝿の王』を出版した年だ。
しかし、ゴールディングが、子どもは生来、邪悪だと考えていたのに対し、シェリフは、すべては状況次第だと確信していた。キャンプは楽しく始まった。
両グループはそれぞれ、「ラトラーズ(ガラガラヘビ)」・「イーグルス(ワシ)」と自分たちに名前をつけた。
1週目、互いの存在に気づいていない彼らは、グループ内で協力して作業をこなした。ロープでつり橋を作り、湖への飛び込み台設置し、ハンバーガーの肉を焼き、テントを立てた。
ともに走り、遊び、誰もが互いと友だちになった。
2週目、実験は別の方向へ向かう。
研究者は慎重に、両グループを互いに紹介した。その後、ラトラーズが、「自分たちの」野球場でイーグルスがプレーしているのを聞きつけた。
ゲームで勝ち負けを決めることになり、ライバル心と競争の一週間が始まった。
対立は急速にエスカレートしていった。
2日目、綱引きで負けたイーグルスは、腹いせにラトラーズの旗を燃やした。
対してラトラーズは夜襲を仕掛け、カーテンを切り裂き、マンガ本を略奪した。イーグルスは靴下に重い石を入れ、それを武器にして決着をつけようとした。
間一髪のところで、キャンプリーダー(実は研究者)が仲裁に入った。
この週の終わりに、ゲームの勝者はイーグルスだと宣言され、そのメンバーは全員、光り輝くポケットナイフをもらった。
腹立ちが収まらないラトラーズは、また夜襲をしかけて、賞品をすべて奪って逃げた。イーグルスの面々が、ナイフを返せと迫っても、ラトラーズはあざけるだけだった。
一人が「かかってこい、この臆病者と言って、ナイフをこれ見よがしに振り回した。少年たちが殴りあいを始めると、キャンプ場の管理人を装ったシェリフ博士は、すこし離れた場所に座って、忙しそうにメモをとった。
彼にはすでに、この実験が金鉱になることわかっていた。
ロバーズ・ケーブ実験の話は、ここ数年、特にドナルド・トランプがアメリカ大統領に選ばれて以来、再び注目されるようになった。
数え切れないほどの専門家が、現代を理解するための鍵として、この研究を取り上げた。
ラトラーズとイーグルスの対立は、右派と左派、保守と革新という普遍的な対立を象徴しているのではないだろうか。テレビのプロデューサーたちはこの研究の設定に注目し、これはヒットすると見込んだ。
オランダのテレビ局はこのキャンプを再現する番組を作ろうとした。
タイトルはふさわしくも「This Means War(これは戦争を意味する)」である。しかし、そのコンセプトが本当に戦争を意味することが判明し、撮影は早々に打ち切られた。
そろそろ、ムザファー・シェリフがまとめた1961年のオリジナルの研究報告書を読むべきだろう。
最初のページでシェリフは「状況によって外集団に対する否定的態度が生じる」と述べている。
わかりやすく言えば、戦争が起きるということだ。それでも、専門的でわかりにくい表現の中に、わたしはいくつか興味深い事実を見つけた。
まず、ゲームでの競争を提案したのは、子どもたちではなく実験者だった。しかも、当初イーグルスは、その考えにあまり乗り気ではなかった。
ある少年はこう言っている。
「彼らとは仲良くできそうだ。そうした方が、誰も腹を立てたり、恨んだりしないですむよ」
加えて、研究者たちが提案したのは、バスケットボールや綱引きのように、勝ち負けがはつきりしているゲームだけで、残念賞はなかった。
さらには、接戦になるよう、研究者たちはスコアを操作した。
こうした陰謀は、ほんの始まりにすぎなかった。
メルボルンでジーナ・ペリーはオーストラリア人の心理学者で、シェリフの実験に関する大量の記録や録音を調べるうちに、過去50年の間に教科書で何度となく語られたあらゆることと食い違う事実を見つけた。
まず、ロバーズ・ケーブ実験に先立って、シェリフが「現実的葛藤理論」を立証しようとしていたことが判明した。
現実的葛藤理論とは、利害が相反する外集団に対しては敵対的になりやすく、利害が一致する内集団に対しては協力的になりやすい、という理論。
シェリフは1953年に、ニューヨーク州のミドル・グローブという小さな町の郊外で、サマーキャンプを催した。そこでも彼は全力を尽くして、少年たちを対立させようとした。
後に彼がこの実験について唯一、(しかも脚注に紛れ込ませて)語ったのは、「さまざまな問題と好ましくない。状況のせいで」この実験を中断しなければならなかった、ということだけだった。
ジーナ・ペリーが、このサマーキャンプの成り行きについて、シェリフの資料から語ったところによると
キャンプの2日目には、少年たちは皆、仲よくなっていた。ゲームをしたり、森を駆け回ったり、弓矢で遊んだり、大声で歌ったりした。
3日目、実験者は、少年たちを「パンサーズ」と「パイソンズ」という二グループに分け、その週の残りの数日、ありとあらゆる手を使って両グループを敵対させようとした。
パンサーズの少年たちは、グループで着るお揃いのTシャツのデザインとして、平和の象徴であるオリーブの枝のイラストを提案したが、却下された。
数日後、実験スタッフの1人が、パイソンズのテントを一つ引き倒した。
パンサーズの犯行だと思われることを期待したが、実験者にとっては腹立たしいことに、両グループは協力して、テントを立て直した。
次に、スタッフは、パイソンズが疑われるのを期待して、パンサーズのキャンプ地を荒らした。
少年たちはまたもや助け合って、そこを元どおりにした。自分のウクレレを壊されたある少年は、スタッフを呼び出し、アリバイを尋ねた。
そしてこう非難した。「たぶんあなたはぼくらの反応を見たかっただけでしょう?」
日がたつにつれて、研究チームの雰囲気は悪くなっていった。
お金をかけた彼らの実験は、完全な失敗へと突き進んでいた。少年たちは、シェリフの「現実的葛藤理論」が予測するような喧嘩はせず、仲のいい友だちのままだった。
シェリフはスタッフを責め、午前2時になっても寝ようとせず、酒を飲んでいた(ペリーが聞いた録音テープによると、シェリフはいらいらと歩き回っていた)。
最終日が近づいたある夜、研究チームのストレスは限度を超えた。
少年たちはすやすや眠っていたが、シェリフは、子どもたちを仲違いさせるために全力を尽くしていないと言って研究アシスタントの1人になぐりかかった。
そのアシスタントは自衛のために、薪をつかんだ。「シェリフ博士、そんなことをするなら、こちらもなぐりますよ」。
彼の声は夜の闇に響き渡った。一人の少年が、スタッフによる詳細な観察を記したノートを見つけ、自分たちがモルモットにされていることを知った。
そうなると、実験は中止するほかなかった。この実験で立証されたことがあるとすれば、それは、子どもたちがいったん仲よくなると、仲違いさせるのはかなり難しいということだ。
この時の少年の一人は何年か後に、心理学者たちについてこう語った。
「あの人たちは人間の本性がわかっていなかった。子どものことを完全に誤解していた」
スタンフォード監獄実験
ジンバルドが行った実験は、疑わしいだけではない。握造だったのだ。
それまでずっと、彼の「看守たち」は自発的にサディストになったと思っていた。
実際、ジンバルド自身も数え切れないほどのインタビューで、その点を強調していたし、看守たちが米国議会の聴聞会で、「法と秩序と尊厳を守るために、独自のルールをつくり上げた」と証言したことさえあった。
しかし、ジンバルドは実験前の土曜日に行われた、看守たちとのミーティングについて述べている。
その午後、ジンバルドは看守たちに彼らの役割について手短に説明した。
その内容は誤解のしようのないものだった。
ジンバルド:「我々は欲求不満を生み出すことができる。彼らの恐怖心を生み出すこともできるさまざまな方法で彼らの個人としての人格を奪うつもりだ。彼らは制服を着せられ、けっして名前では呼ばれない。数字を与えられ、その数字で呼ばれるのだ。一般的に、こうしたことのすべては、彼らに無力感を生じさせるはずだ」
加えて、実験が始まる前の土曜日にはすでに、ジンバルドはあたかも自分と看守が一つのチームであるかのように、「我々」と「彼ら」という表現をしていた。
後にジンバルドは、実験が進むにつれて自分は自然に看守長の役目を果たすようになった、と言ったが、それは嘘だった。
初日から彼は采配を振っていたのである。このことは、研究の客観性に致命的な影響を及ぼす。
それを理解するには、社会学者の言」う「要求特性」を知る必要がある。要求特性とは、被験者が実験の狙い(要求)を推測して、それに合う行動をとろうとすることで、そうなると科学実験は茶番劇に変わる。
そして、ある研究心理学者が述べているように、スタンフォード監獄実験では、「要求はあからさまだった」。
では、看守たちは、何を要求されていると思っただろう。のんびり座って、トランプをしたり、スポーツや女の子の話をしたりすることだろうか。
後のインタビューで、看守役を務一めたある学生は「やることを前もって計画していた」と語った。
「ぼくの頭には、明確なプランがありました。受刑者の行動を引き出し、何かを発生させ、研究者に研究材料を提供しようとしたのです。」
結局のところ、カントリークラブにいるかのようにのんびりくつろいでいる若者から何を学べるでしょうか」。
2018年の秋、彼の情け容赦ない分析が、世界有数の心理学雑誌「アメリカン・サイコロジスト」に載った。
そもそも、この実験を思いついたのはジンバルドではなく、デーヴィッドジャッフエという修士課程の学生だった。ジャッフェと四人の級友は、ある科目の課題をこなすために、自分たちの寮の地下を監獄にするのは名案だと考えた。
1971年の5月、彼らは友人に声をかけ、6人を看守、6人を囚人にし、ジャッフェ自身が刑務所長になり、24時間限定で、その試みを実行した看守たちは、「囚人は互いを数字でしか呼んではならない」、「囚人は刑務所長をつねに 『刑務所長様』と呼ばなければならない」といったルールを考え出した。
翌日の月曜日の授業で、ジャッフェはこのエキサイティングな「実験」と、それが参加者に引き起こした強い感情について熱っぽく語った。
ジンバルドは強く興味をそそられ、自分で試さずにはいられなくなった。
実験に際して、ジンバルドが心配したのは、次の2点だけだった。十分にサディスティックな看守を見つけることができるだろうか。
人々に潜む邪悪さを引き出すのを誰が手伝ってくれるだろうか。ジンバルドはジャッフェを研究助手として雇うことにした。
後に、ジャッフェはこう説明した。「優れたサディストとしての以前の経験をもとに、戦術を提案しなさい、と言われました」以後、40年間、数え切れないほどのインタビューや論文において、ジンバルドはこの実験の看守役には一切、指示を与えなかった、と言い続けた。
「囚人に課したルール、罰則、屈辱は、すべて看守たちが考え出したのだ」と。
さらにジンバルドは、実験に参加したジャッフェのことを、看守役の学生で、他の看守役と同じくこの実験にのめり込んでいた、としかいていない。
真実はそれとは程遠いものだった。17のルールのうち1は、ジャッフェが考案したものだった。囚人が到着してからの詳細な手順を決めたのも彼だった。足首に鎖をつけるのは?彼のアイデアだ。
囚人を裸にするのは?
同じく15分間・裸のまま立たせるのは?
それもジャッフェのアイデアだった。
それだけでなく、実験前の土曜日、ジャッフェは他の看守たちと六時間を共に過ごし、鎖と警棒の最も効果的な使い方などを説明した。
「実験で起きることのリストがここにある。そのうちのいくつかは、起きなければならないことだ」と、彼は語った。実験が終わった後、仲間の看守たちは、ジャッフェの「サディスティックな発想力」を称賛しさえした。
一方、ジンバルドも、サディスティックなゲームプランに貢献していた。彼は囚人を常に寝不足の状態にするために、点呼と称して午前二時半と午前六時に起こすという厳しいスケジュールを立てた。
また、妥当な罰として、囚人に腕立て伏せをさせたり、彼らの毛布を植物の棟だらけにしたりした。
独房に入れることも好んだ。
なぜジンバルドは、ここまで詳細に実験を管理しようとしたのだろう。
答えは簡単だ。
彼は看守には興味を持っていなかった。
この実験が焦点をあてていたのは、囚人だった。強いプレッシャーを受けた囚人が、どう振る舞うかを解明したかったのだ。
彼らはどのように退屈するか?どのようにイライラするか?どのように怖がるか?看守たちは自らを研究アシスタントと見なしていた。
ジンバルドが看守たちをどう扱ったかを振り返れば、彼らがそう思うのも当然だった。看守たちが次第にサディスティックにな一っていったことにジンバルドが衝撃を受けたとか、そうした看守役の変化がこの実験の真の教訓だといった主張は、事後につくり上げられたものだった。
実験の間、ジンバルドとジャッフェは、因人をもっと厳しく扱うよう看守たちに圧力かけ、厳しさの足りない看守を叱責したのである。
それでも被験者の大半が最後までやり通したのはジンバルドが報酬をはずんだからだ。
報酬は日に15ドル(今の約100ドルに相当)だったが、実験が終わるまで、もらえない約束だった。
看守たちも囚人たちも、ジンバルドの劇的な演出通りに演じないと報酬をもらえないのではないか、と恐れた。
しかしそうした報酬も、一人の囚人を引き止めるには十分でなかった。初日で彼はすっかり嫌気がさし、もうやめたいと言い出した。
囚人8612号こと、22歳のダグラス・コルピだ。
彼は2日目にヒステリーを起こして叫んだ。
「何だってんだ。ジーザス!もう一晩も耐えられない」
このセリフは、多くのドキュメンタリーで取り上げられ、実験の録音の中で最もよく知られるセリフになった。
2017年の夏、一人のジャーナリストがコルピを訪ねた。
コルピは「あのヒステリーは全部芝居だった」と語った。
もっとも、コルピはそれをずっと秘密にしていたわけではない。
実験の後で、彼は何人かに打ち明けた。
ジンバルドにも告げたが、無視された。あるドキュメンタリー制作者は、コルピからヒステリーが芝居だったことを聞いて、その部分をフィルムから削除した。
スタンフォード監獄実験から何十年も経ったが今も大勢の人が、ジンバルドの茶番劇を真実だと信じている。
囚人役を務めたある男性は、2011年にこう言った。
「最悪なのは、40年たってもまだジンバルドが脚光を浴びていることだ」。
ジンバルドは、データの分析も済まないうちに複数のテレビ局に実験の画像を送った。
それから数年で彼は、その時代の最も注目される心理学者になり、アメリカ心理学会の会長にまで登り詰めた。
さてジンバルドはこのすべてについて何と言っただろう。あるジャーナリストが二〇1八年に、あなたがどれほど操作したかが明らかになれば、この実験に対する今日の人々の見方は変わるのではないか、と訳ねた。
すると、ジンバルドは「そんなことはどうでもいい」と答えた。
「あの実験について、人は何でも言いたいことが言える。しかし、現時点で、あれは心理学の歴史上、最も有名な実験だ。行われてから50年たっても議論される実験は、他には存在しない。一般の人でもあの実験のことは知っている。…あれはもう自らの命を一持っているのだ。……わたしにはもうあれを守るつもりはない。この先、あの実験を守るのは、これほど長く生き延びたという事実だ」