本当に偉い人間とは「人生で夢や希望をまったく叶えられなかった」のに、しぶとく生きている人である
だから禅僧は中学生に「夢や希望なんて持たなくてもいい」と話した
※本稿は、南直哉『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』(アスコム)の一部を再編集したものです。
「前向きに生きる」ことに縛られていないか
あなたは、「良い人生」とはどんなものだと思いますか?
「努力して夢や希望を叶えること」
「やりがいのある仕事や生きがいを持ち、充実した毎日を送ること」
そんな風に考える方は多いのではないでしょうか。もちろん、そういった前向きな物語に乗って楽しく生きられるのなら、それで何の問題もありません。
しかし、「夢や希望を持たなければ」「生きがいややりがいを見つけなければ」と考えて自分を追い込み、苦しくなってしまっているのなら、むりやりその生き方に合わせる必要はありません。
私は福井県の永平寺で僧侶として20年近くを過ごした後、縁あって青森県にある霊場、恐山の院代(住職代理)となり10年以上が経ちました。その間、生きづらさや苦しさを感じているという、たくさんの方々とお会いしてきました。
皆さんのお話を伺う中で、仏教の考え方がさまざまな問題の解決の糸口、生きるためのテクニックとなるのだということに気がつきました。
仏教は、こだわりや執着から起こる悩みや苦しみの正体を知り、その取り扱い方を身に付けるためのツールとして利用できるのです。ここでは、拙著『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』(アスコム)の中から、夢や希望との向き合い方、生きがいややりがいに縛られない生き方について、いくつかお話したいと思います。
夢や希望がなくても人は生きていける
以前、ある中学校に講師として招かれたときの話です。
「私は60歳前のおじさんですから、みなさんの気持ちは少しもわかりません。これからする話がためになるかはわからないが、私にも中学生だった時代があります。当時のことを思い出しながら話すので、自分の役に立つと思ったことだけを覚えていてくれれば十分です」と断ってから、次のような話をしました。
ほかの大人は君たちに夢や希望を持てと言うかもしれない。
もちろん、夢や希望どおりに生きられた人間は、けっこうな人生を送れたのだからすばらしい。拍手を送ろう。
しかし、私が今まで生きてわかったことがある。それは、人生では夢が叶わなかったり、希望どおりにいかなかったりすることのほうがずっと多いということだ。
現実では、ほとんどの人間は夢破れる。
でも、心配するな。夢が破れても人は生きていくことができる。
そのほうがもっと大事なことだ。
その証拠にまわりを見てみるといい。
先生や君たちの親が、子どもの頃の夢を叶えて、理想の人生を生きているか?
畑仕事をしたり、公園のベンチに座ったりしているおじいちゃんやおばあちゃんに、いまさら夢や希望が要ると思うか?
そんなものを叶えていなくても、みんな十分元気で生きているだろう。
だから、夢や希望なんて持たなくても大丈夫。
なんの問題もないから、安心していいのだ。
未来ある中学生に、身もフタもないことを言っていると思うかもしれません。しかし、彼らは明らかに話に食いついてきました。つまり、リアルな話だったのです。
「夢に破れても生きていく人」を称賛したい
夢や希望を持つことが、必ずしも悪いと言っているわけではありません。ただ、持たなくても一向にかまわないと言っているのです。
現代で言う「夢」とは、多くの場合「なりたい職業」を指しているにすぎません。
職業を考えるときにもっとも大切なのは、「人の役に立ってお金をもらうこと」です。仕事は、自分の夢のためにあるわけではありません。そこをはき違えていると、人は夢や希望に振りまわされてしまうのです。
私が本当に偉いと思うのは、夢や希望を叶えて生きる人ではありません。夢に破れても生きていく人です。
「この目標を叶えたい」という願いが叶わなくても、しぶとく生きていく人です。
夢や希望を叶えて生きるのは、ある意味、ラクなことでしょう。たとえば、オリンピックで金メダルを獲った選手は、周囲の期待や精神的な重圧に耐えて結果を出せたことは、偉いかもしれません。
しかし、彼らはもともと優れた才能や精神力があり、自分の夢を叶えるために相応の努力をしたわけです。その才能と努力に見合った結果を出したのですから、その意味では、当然のことをやったまででしょう。
挫折感から立ち上がり、再び歩き出した人は強い
でも、血のにじむような努力をしたのにメダルに手が届かなかった選手が、結果を残せた選手より劣っているかと言えば、まったくそうではありません。
目標に向かって、懸命にがんばってきたけれど叶わなかった。夢をつかもうと必死で手を伸ばしたのに、届かなかった。
その挫折感から立ち上がり、再び歩き出した人間の底力は、大したものだと感服します。そういった経験は考え方の幅や強さとなって、その人の財産となるはずです。
私は、人間にとって挫折は大事だと思います。なぜなら、そのとき人は損得勘定から離れられるからです。
「自分の欲を満たしたい」「人から認めてもらいたい」「自分のためになることをしたい」……。ふだん、人は得をしたいと思うところから動いています。「こうすればうまくいくかもしれない」「これをやれば得になるから、やってみよう」と考えがちです。
しかし、人生につまずくと、そんな算段は吹き飛びます。
思いどおりにいかなかったとき、夢破れたときに、人は損得から離れ、自分が本当に大事にするものを見極めます。
そして、それを見極めた後、自分の努力が報われるかどうかわからなくても、歩き始めます。そんな人間には、ある種の凄みが備わるのです。だから、夢や希望が叶わなくても、がっかりすることはありません。
むしろ、夢や希望が人生の妨げになるかもしれません。夢も、希望も、じつは麻薬のようなものだからです。
いつまでも叶わない夢を持ち続けているのは、夢という麻薬が切れたときの禁断症状が怖いからにすぎません。本当は、夢と希望を持つことに疲れ切っているのなら、今後もそれを持ち続けるのか、それとも手放すのか。
「夢」の後ろに隠れた自分の本音を、一度徹底的に見てみることです。
「生きがい」や「やりがい」をつくる必要はまったくない
夢や希望が必要ないのと同じように、「生きがい」や「やりがい」の類も、無くてかまわないと私は考えます。
「せっかく生まれてきたのだから、意味のある人生を送りたい」と言う人がいますが、「せっかく」はなく、この世に「たまたま」生まれてきただけです。
もちろん、「やりがいのある仕事」や「生きがいに満ちた毎日」がある人は、その日々を謳歌していただければいいでしょう。
しかし「生きがいが感じられない」「やりがいが見つからない」と、悩むほどの問題ではありません。そんなものがなくても十分生きていけます。
「そうは言っても、社会とかかわりながら、充実した毎日を送りたいのです」
「誰かの役に立っている実感を得たいじゃないですか」
「自分の使命を見つけて、人の役に立たなきゃと思って」
そう言う方には、具体的に「誰」の役に立ちたいかを尋ねます。すると、「誰と言われても……」と、ほとんどの方が口ごもるのです。
「人の役に立ちたい」と思うなら、まずは身近な人から
ある男性に、「では、奥さんの役に立つことをしたらいかがですか?」と言ってみました。すると「いや、それはちょっと」と苦笑いされました。
「奥さんだって人の内でしょうに、おかしな人だ」と思ったものです。
「人の役に立ちたい」と思ったときは、自分がいったい「誰」を大事にしたいのかを考えていけばいい。ごく簡単な話です。
現実的に言えば、大切にしなければならないのは、自分と縁の深い人間、身近にいる人間でしょう。でも多くの人は、具体的に問題を考えているのではありません。
「社会的に意味のあることをして生きがいのある人生を送れば、この重苦しい気分が軽くなるはず」と、なんとなく思っているだけです。
このように悩んでいる方の話を聞くと、現状に不満や問題を抱えていて、それを直視できないでいる場合が多いようです。しかもそれは、感情を抜きにして問題を解きほぐせば、すぐに打開策が見つかりそうなことです。
たとえば、人間関係が希薄なのであれば、自分から人の中に出かけて行くようにする。それが苦手なら、身近な人間関係を見直してみる。
人生で不具合を起こしているところ、自分が抱えている不満や問題を調整できれば、わざわざ「生きがい」や「やりがい」を探す必要はないのです。