怠惰こそ美徳、余暇が充実しなければ本当にやりたいことは見つからない。

バートランド ラッセル バートランド・ラッセル – Wikipedia

現代「働かざるもの食うべからず」というように、社会では働かないやつはろくでもない。
ニートはクズみたいな感じで一生懸命働くことが美徳みたいな価値観が当たり前にあります
そういった価値観は本当に正しいものなんでしょうか20世紀イギリスの哲学者ラッセルはこのように言います。
お前らさ、なんか勘違いしてねえか?
働き者が偉いってのは奴隷の道徳なんだよ。
現代において奴隷なんて必要ない。
もっと怠惰にやりたいことに時間を使うのが人間らしい生き方ってもんなんだよ
これはつまり「働き者が偉い」というのは人々を奴隷として働かせたい人が作った道徳であり、現代の働き方は人間らしい生き方とは掛け離れてしまっているということです。
ですがそう言われましても、皆さんこのように思うかもしれまね
「何言ってんだ働らかなきゃ社会は回んねえじゃねえか適当なこと言ってんじゃねえぞ」
まあこんな感じでニートはクズに決まっている。
働きたくないと思いながら、それでも社会のために頑張る人の方が偉いと思うんじゃないでしょうか。
ですがラッセルはこのように言います
「労働なんて1日4時間にしても、十分に社会は回るんだよ。
やらなければいけないことがない時間、余暇こそが文明を発展させ社会を豊かにしていくんだよ」
ラッセルは余暇こそが社会を豊かに人々の人生を豊かにするものだと言いました。
それでは今日はバートランド・ラッセルの語る「怠惰こそが美徳である」という話を解説しましょう

バートランド・ラッセルは1872年イギリスで生まれました。
おじいさんはジョン・ラッセルというイギリスの首相を2度務めた人物で、彼の家系は名門の貴族でしたケンブリッジ大学で、数学と哲学を融合した数理哲学を研究し、「数学の原理」という本を出版したことで一躍有名となり、1950年には哲学の分野でノーベル文学省を受賞、平和活動にも力を入れかのアインシュタインと共同で核兵器の混や科学術の平和理を訴えるラッセル=アインシュタイン宣言を発表、そんな花々しいまでの経歴を持つラッセルですが、彼の人生は決して幸福なものではありませんでした。というのも2歳の頃に母親をなくし、4歳の頃には父親も失っています。そのご祖父母に育てられることになりますが、その祖父母はあまりにも厳しい人物でした。例えば食事は毎日非常に質素なもので、少しでもおいしいものだった場合、こんな美味しいもの子供には贅沢だもっとまずいもん食べなさい。さらに、1年通じて風呂は水風呂を共用され毎日夕方になるまで椅子に座ることすら許されませんでした。そんな生活を続ける中で幼少期は早く死にたいとまで思っていたと言いますそういった影響もあってか
彼は、人の人生とは抑制のない、もっと自由なものであるべきだと、考えるようになりました
彼の生きていた時代というのは、産業革命以降人々の労働時間がどんどん伸ばされ、この辛い労働を
どうにかできないか多くの人が悩んでいました。機械産業の発達により、当時の人々の様々な仕事が機械によって代用されるようになりましたが、それでも労働時間は何も変わらずラッセルはこのように言いました。
人々の仕事が機械にわったのに、なんで仕事は全然減ってないだ、むしろ機械がやった分だけ商品が安くなるだけで、どんどん仕事が増えてるだけじゃないか。
このようにせっかく、テクノロジーによって仕事を機械に任せられるようになったのに、その空いた
時間を他の仕事で埋めているだけで、全く楽になっていない現状をまの当たりにしました。
ではなぜ、そんな状況になってしまうのか、
ラッセルは楽をすることは悪。勤勉に働くことこそが美徳という価値観のせだと考えました。
彼はこのように言います。
労働が義務という価値観は、
支配者が民衆のためではなく、支配者のために働くべきとしたものだ。
そんなものは奴隷の道徳じゃないか。
現在に奴隷の道徳なんて必要ないじゃないか。
つまり労働は美徳労働は義務という価値観は支配者が奴隷を管理するコストを抑えるためのもの、いわば、人に自分の分も働かせれば、自分だけが楽をできる。そのために支配者が意図的に作り上げた奴隷のための道徳ということです。
ですが、機械産業の発達により、奴隷の代わりを機械がしてくれるようになり、生活のために必要な労働量を劇的に減少させることができた今、いつまでも奴隷の道徳を重視する必要はないじゃないか。
もっと自由に、余暇を満喫できるようにするべきじゃないかと言いました。

例えば縄文時代の日本人は1日の労働時間は4時間程度
古代ギリシャの時代にはむしろ労働はしない方がいいという価値観があり当時奴隷とされていた人々でも今の労働者よりもはるかに待遇が良く、怠惰で自由な生活をしていたと言います。にも関わらず
はるかに発展した私たちが、なぜそれよりも長く働かないと生きていけないんでしょうか?
ラッセルはこのように言います。
まともな世界ならテクノロジーが発展するほど、
人々は自由な時間を手にし、
豊かな生活ができるようになるはずだ。
テクノロジーが発展した分、仕事を増やすなんて
これほど狂ったことを誰が思いつくだろうか
例えば今まで1日かかっていた作業が、テクノロジーを導入することによって半日でできるようになります。するとどうなるでしょう、商品の料金がそのままであれば人々は自由な時間を手にできますですが、ほとんどの会社は空た半日に他の仕事を入れ、その分、商品の料金を安くし、結果的に同じ額しか稼げなくなります。
最近はA.I.に仕事が奪われるなんて言われていますが、AIにやらせた分料金が安くなり別の仕事が生まれるだけだと思っています
これでは一体何のためにテクノロジーがあるんでしょうか?
もちろん、それを繰り返すことでよりテクノロジーが発展すると考えるかもしれませんですが
私たちの生活が豊かにならない私たちの余暇が増えないのであればテクノロジーを発展させる意味は一体どこにあるんでしょうか
ラッセルはこのように言います
労働よりも大事なのが消費だ。
人が金を使うから新たな雇用を生み出すんだよ。
労働のせいで使う時間がなかったらどんどん金が回らなくなるじゃねか。
このように、人は稼いだ金を消費することで経済が回り、それによって雇用が生まれると言いました。
そもそもお金を使う時間がなかったらどうでしょうか。
服を買うにもスーツを着る会社員であれば、私服を着る機会なんて土日の週2日しかありません。
ゲームを買おうにも、平日は仕事が終わった夜中1日に2時間程度しかできなければ、1つのゲームだけで何日もできてしまいます。
日本では何年も不景が問題視され続けています。
毎日8時間働き休日は疲れを癒すために休むだけ、そんな余暇のない中で一体いつお金を使えばいいんでしょうか。
使う時間がないから人々がお金を使わなくなります。人々がお金を使わないからどんどんお金が回らなくなります。
例えば1日4時間しか働かな人は、彼は仕事に4時間しか使わないため毎日長い暇時間があります。
では暇な時間をどうするかといえば、趣味に時間を使うようになります。
趣味に時間を使うようになれば、当然趣味にお金がかかるようになります。
もちろん、そんなお金はどうやって稼ぐのかと思うかもしれません。
ですが、趣味にお金を使うようになれば趣味の商品を作る会社の売上がどんどん上がります。会社の売上が上がれば少ない労働時間でも従業員に高い給料を払えるようになります。
つまり、人がお金を使う時間がないというのは、人がお金を使わないせいで会社が儲からないだから労働者に高い給料を払えないだからなおさら人がお金を使わなくなるという最悪のループなんです。
ラッセルはこのように言います。
現代にやるほとんどの仕事は何の役にも立たない。
ガラクタを作る仕事じゃないか。
ほとんどの労働がガラクタを生み出すために消費されてるじゃないか。
このように、現代の中にあるほとんどの仕事は何の役にも立たないガラクタを生み出す仕事だと言いました。
例えばトイレのオシュレットがあります。あのオシュレットは私たちを豊かにしたものでしょうか。田舎の実家にはオシュレットがなく、それが当たり前だったので、ただ紙で尻を拭けば十分だと思っていました。ですが、1度オシュレットを使ってからはウォシュレットがないトイレではなんだか綺麗になった気がせずすごく不快な気分になっています
このオシュレットは何を生み出したんでしょうかシュエットが生み出したのはウォシュレットがない時の不快感だけではないでしょうか。
例えば、石鹸を買うにも、泡で出てくるタイプや香り付きのもの様々な種類のものが大量に置かれていますですが、それほどの種類は本当に必要なんでしょうか?
最初からただの石鹸しかなければ何も気にせずに使っていたはずです。このように現代作られているほとんどのものはいらないものなくても何も問題なかったものです。いらないものを作るから多くの人は欲しがらず商品が売れなくなります商品が売れなくなるからもっといらないものを作るしかなくなります。
いらない商品を作る時間がなくなれば必要な商品にだけ時間を使えます。いらない商品にお金を使わなくなれば必要な商品にだけお金を使えます。さらに言えば労働者側もいらない商品を作るから仕事がつまらなくなります。
自分自身がワクワクできるいい商品を作っていれば仕事にやりがいも生まれます。
ラッセルはこのように言います。
まともな組織が一定数あれば、
人が生きてく上で必要な労働時間は1日4時間だけなんだよ。
労働を4時間で切り上げば万事うまくいくんだよ。
現代の世の中では競争がある以上、医者が値引きを始めれば周りもそれにそわないといけません。
ラッセルはそういった競争をやめれば競争をやめられる。
まともな組織が一定数あれば人は4時間働きそれ以外は余暇として自由に過ごすそういった人間らしい生活ができるようになると考えていました。
さてここまでの話で、もしかしたら、このように思う人がいるかもしれません
「まあ確かに働きすぎってのは、分かるけど別に休みが増えたところでやりたいこともないんだよな」
こんな感じで余暇が増えたら増えたで、今度は退屈になってしまうと考えるかもしれません。
事実仕事を定年で退職した後、やりたいことがなくただ家でゴロゴロするだけ、そうして一気にふけんでしまう人が大勢います。
というのも現代の私たちは労働を重要視するようになったせいで、あらゆるものをお金を稼ぐことができるのか、自分の利益になるのか、そういった役に立つかどうかで見るようになっています。ですがそのせいで無駄なことを楽しむ無駄なことに自ら取り組むという観点がなくなってしまっているんじゃないでしょうか。
ラッセルはこのように言います。
労働者たちにとっての楽しみとはそのほとんどが受動的なものになってしまっている。
それは活動的なエネルギーが労働に吸い取られてしまった結果なんだよ。
例えば、ほとんどの労働者は、趣味といえば、サッカー観戦だったり、YouTubeを見ることだったり音楽を聞くことだったり、誰かの作品を受動的に受け取ることしかしません。
ですが、それはラッセルに言わせれば活動のエネルギーを全て仕事に奪われているからなんです。受動的な趣味だけでは熱中することができません。
本気になれないから人生が楽しくなりません。ですがそもそも本気になる体力自体が仕事に奪われてしまっているんです。
多くの人は自分が何がやりたいかわからない、やりたいことが見つからないと悩みます。
やりたいことを思いついたところでそれをやる時間がないんだから当たり前です。
ラッセルはこのように言います。
1日4時間以上働くことがない世界なら、
誰もが持っている好奇心の赴くままに追求できる。
くだらない商品を作り、売上げのために働く必要はなくなるんだよ。
例えば、現代の映画や漫画あらゆる作品というのは、作家が好奇心のままに作ったものではなく、売上のため、生活のために、とりあえず売れる作品に時間を使うしかなくなっています。
医者はじっくりと医学の勉強よりもいかにたくさんの患者を見るかを重要視するしかありません。
さらにラッセルはこのように言います。
普通の人々も、労働に時間を使いすぎるせいで日々苛立ち時間に追われている。
もっと時間に余裕ができれば、人をせめ、妬む気持ちもなくなるだろう。
このように日々、したくもない労働に長い時間を使わされるせいで、人々は日々苛立ち、人を妬み、幸福感を感じられない毎日になってしまうと言いました。
私たちは、機械が登場する前、テクノロジーが発展する前よりも、はるかに忙しく働いています。
それはあまりにも愚かなことですですが、だからと言って、これからもずっと愚かであり続ける必要はないんじゃないでしょう。?
今回はラッセルの語る怠惰こそが美徳であるという話です。
知り合いに会社が嫌になり突然、全てを投げ出してしまった人がいます。彼は会社を辞め、友達とも会わずに3ヶ月近く家に引きこもったと言いますですが、それでどうなったかと言と家に引きこもるうちに人と喋りたいと思うようになり、自分は多くの人と話したいんだと気づいたと言います。そう
して現在はバーを経営し、現在の仕事は天職だと、本当に仕事を楽しんでいます。まさに1度思いっきり怠惰になることで自分がやりたいことにたどり着いたって感じでした。
現代は勤勉こそが美徳であり怠惰は悪と考えられがちです。その価値観は私たちが生きている間にはなかなか変わらないかもしれませんですが、自分だけは1度思いっきり怠惰を体験してみることで、自分の本当にやりたいこと、仕事に使うエネルギーがなくなったら、自分のエネルギーはどこに向かうのか試してみてもいいんじゃないでしょうか?
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