幸福を決定するのは状況よりもむしろ性格なのです
人間は“気候変動”より“小惑星の衝突”に対処するほうが上手い
ダニエル・カーネマンの教える人生の指針「幸せを求めるのではなく、今に集中しよう」
ダニエル・カーネマン 1934年生まれ、プリンストン大学名誉教授。意思決定論および行動経済学学者。2002年はノーベル経済学賞を受賞。
現代を生きる上での指針を求めて
ハーバード大学の心理学教授スティーブン・ピンカーは、ダニエル・カーネマンを「現代に生きる最も影響力のある心理学者」と評す。しかし、カーネマンは権威とみなされることを嫌う。
カーネマンのもっとも有名な著作ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 文庫 (上)(下)セットは世界的ベストセラーとなったが、その出版からちょうど10年が経った。しかし、本人はその出来が満足できるものだったか、いまだに自信が持てないという。
ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 文庫 (上)(下)セット
そうはいっても、人間の心とそこに潜む数々の欠陥に関するカーネマンの冷静な分析が頼りになることに変わりはない。特に、不安定と混乱が高まる現代において、正気と節度を私たちが保つための指針となる。
いつも不機嫌なことで知られるノーベル経済学者のカーネマンに話を聞いたのは、2021年の終わりのことだ。カーネマンはニューヨークの自宅アパート、私はロンドンの誰もいないオフィスにいた。
インタビューの目的は、カーネマンの有名な『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 』についてと、同書が読者の心の捉え方をいかに変化させたのかを振り返ることだった。
それと同時に、不確実な現代、およびこの先1年をどう乗り切るか、彼の優れた頭脳から引き出したいと考えた。さて、カーネマンはなんと答えるだろうか。
知識人は“解決者”ではない
「世界が抱える問題に対して解決策を提示しなければいけないなどとは思っていません。“知識人”という言葉には不安を感じます。それが誰であろうと、世界のあらゆる問題を解決できる人というニュアンスがその言葉にはあります」
しかし、ためらうことなく「わからない」と口にするそのきわめて謙虚な姿勢こそが、本人が望むまいが、カーネマンをかけがえのない“知識人”たらしめている。
現在87歳のカーネマンは、行動経済学の生みの親として知られるが、そこから派生したのが広く知られる「ナッジ理論」である。
この行動経済学の見識は今日(こんにち)、世界中の政府に用いられている。税金を払わせ、糖分摂取を控えさせ、トイレでもっと正確に用が足せるよう市民を促すのに活用されている。
カーネマンはイスラエル人心理学者エイモス・トベルスキーと有名な共同研究を行い、2002年にノーベル経済学賞を受賞した。2人は、社会科学界のレノンとマッカートニーと呼ばれ、ノーベル賞受賞はトベルスキーの死から6年後のことだった。
人間の思考にある欠陥
とはいえ、学術界外にカーネマンの名を知らしめたのは著作『ファスト&スロー』だった。2011年に出版されると爆発的に売れ、ビジネスにスポーツ、政府へ浸透していった。
ここでの中心的な考えは、人間には大きく分けて2つの思考システムがあるというものだ。システム1は衝動的で直感的、努力を不要とするもので、システム2はよりコントロールされ、熟慮されるものだ。
どちらのシステムにも欠陥はあるが、人間は実際より自分は合理的だと考える傾向が強いとカーネマンは主張する。より慎重で熟考をするシステム2ではなく、より本能的な思考であるシステム1に身を任せることが多い。問題が起きるのはそのためだ。
「読者はそこに自分自身を認識したのです。明らかに共鳴したわけです」とカーネマンは言う。
同書ではシステム1と2以外にも、思考の欠陥を巡る数多くの洞察が述べられており、現代社会を生き抜こうとする私たちにも有益だ。たとえば、ある経験の全体的なよしあしを判断する際、その終わりの体験を過大に評価する傾向があるという「ピーク・エンドの法則」だ。大ヒットした海外ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』も、最終章の不評によって人気が下がった。
また、「アベイラビリティ・バイアス」によると、人は決断時、慎重に検討した事実や統計よりも、身近なエピソードや、目に留まりやすいテレビやソーシャルメディアなどを頼りがちだという。誰しもパンデミック中に思い当たる節があるだろう。
なぜパンデミックへの対応を間違うのか
パンデミックへの反応については、『ファスト&スロー』よりも昨年出版された共著『ノイズ 組織はなぜ判断を誤るのか?』のほうが参考になるとカーネマンは考えている。それは最後の著作だと本人は言う。
そこで議論されるのは、合意すべき場面においても、人によって判断が大きく異なるのはなぜかということだ。
その原因には、『ファスト&スロー』にあったバイアス以外にも、判断力が妨げられる他のランダムな要素もあるという。たとえば、昼食前の空腹の裁判官は厳しい判決を下すと昔から言われてきた。腫瘍のもたらすリスク診断も、医師によって大幅に異なることもある。
「パンデミックという共通のリスクを前に、政府と個人は非常に異なる反応を見せました」とカーネマンは言う。「そうした反応にはっきりと表れていたのが、意思決定におけるノイズ(判断のばらつき)です」
残念ながら、パンデミックの対策には私たちが考えるよりもはるかに多くのランダムな要素があるということだ。
そこでカーネマンが提案するのは、集団の知恵に頼ることだ。つまり、自分をよく理解し、自分の思考に生じがちな欠陥に気づかせてくれる人々の間に身を置くべきだというのだ。
「私たちは、自分自身の思考より他人の思考の欠陥を見出すほうが得意なのかもしれません」とカーネマンは言う。
個人よりも大きな組織のほうが、意思決定を向上できる可能性が高いというのがカーネマンの考えだ。「組織は、その大きさゆえにゆっくり考え始めます。だからこそ手順や論理を強要する時間の余裕があるのです」
「未来」に対する希望が持てない
カーネマンには運命論者的なところがあるが、それでも子どものころに比べれば世界は大きく進歩したと話す。彼はホロコーストに怯えながら少年時代を過ごし、戦時中はフランスで隠れて暮らした。間一髪でナチスの手を逃れたが、父親は1944年に自然死している。
とはいえ、カーネマンが成長した戦後の世界は未来を楽観視していた。
「現在は未来に対してもうあまり楽観的でないようです。人々が目にするのは未来への期待ではなく脅威です。気候変動や人工知能、対立の深まりは脅威になっています。人々は概して、親世代より幸福になることも、生活が上向くこともないと諦めています。希望をあまり持てなくなったのです」
希望が失われたいま、私たちはどう対応すればよいのか。
「希望を抱けないのなら、1日を大切に生き、今に集中することです。未来が魅力的に思えないわけですから」とカーネマンは言う。
そういう姿勢で臨めば確かに気は楽だろう。しかし、気候変動に立ち向かうべく結集したいときには、そうした姿勢はあまり役に立たないだろう。
「人間は、こうした類いの脅威に対処する能力を備えていません。小惑星が地球に接近しているときのほうが、ずっと適切に対応できるでしょうね。悲惨な事態が発生するタイミングが正確に把握できているケースです。同様の悲惨な脅威に対しては起こりえないほど、人類は結集するでしょう。気候変動はゆっくりと拡散して漠然と起こっており、異議を唱える人もいる。そういった脅威は見て見ぬふりをしやすいのです」
(ネットフリックス映画『ドント・ルック・アップ』をカーネマンは見ていないのだろう。この映画では、地球を滅亡させる巨大彗星が近づいていても、人類はやはり無能であると描かれる)
「幸福」は目指さなくていい
カーネマンが提唱するライフハックは、短期的な幸福よりも長期的に何かを達成することを目指したほうがいいというものだ。
以前は心身の健康や幸福を測るのにもっとも重要なのは、人々の日常生活や気分、感情だと考えていたそうだ。しかし今は、つかの間の喜びよりも、自分の野心や人生への期待を満たす目標の達成に集中すべきだと考えるようになった。
「人々が自らのために望むことや、目標を追求する方法を見てみると、幸福よりも満足感を得ようとして前に進んでいるように思えます」とカーネマンは言う。
カーネマンがこれまでの人生で偉大な業績を達成していても、必ずしも満ちたりていないのは、偶然ではないのかもしれない。
「私は本当に幸運な人生を送ってきました。自分の人生に満足していないなんて言えませんよ。実際に満足しているんですから。ただ、驚くべきことに、幸福を決定するのは状況よりもむしろ性格なのです」
生まれつき幸せな性分の人もいれば、もともとふさぎ込みがちな人もいる。ならばできることはあまりない。
「私はどちらかと言うと悲観的です。ただ、少なくとも明るい悲観主義者ですね」