ヒトの意識をコンピュータに移したら、どんな世界が待ち受けているか

「意識のアップロード」の存在意義③

意識を宿す脳は、すこしばかり手のこんだ電気回路にすぎない。であれば、脳の電気回路としての振る舞いを機械に再現することで、そこにも意識が宿るに違いない。多くの神経科学者はそう考えている。

そのうえで、ここで注目するのは、ヒトの意識のコンピュータへの移植、いわゆる「意識のアップロード」である。仮にそれがかなえば、ヒトが仮想現実のなかで生き続けることも、アバターをとおして現世に舞い降りることも可能になる。俄には信じられないだろうが、アップロードされた本人からすれば、生身の身体で生きるこの世界とまったく見分けがつかないはずだ。

この連載第3回では、ひとつの思考実験として、わたしたちを取り巻く世界、わたしたちの身体、さらには、わたしたちの脳と、順繰りにデジタル化していくことで、アップロード後の世界のリアリティを占いたい。

前回、予告していた新型ブレイン・マシン・インターフェースの中身については、準備が整ったところで次回以降に!)

第1回記事はこちら『ヒトの意識をコンピュータへ移植することはできるか?』
第2回記事はこちら『生きたまま、ヒトの意識をコンピュータに移す方法とは?』

アップロード後の世界

中3の秋、部活動も一段落し、受験勉強に本腰をいれるべきところ、学級新聞にのめり込んだ。今思えば不思議なことだが、自身が理系なのか、文系なのか、定まっていなかったのだろう。高さの揃った机を6つほど並べ、その上に一畳ほどの大きさの模造紙をのせる。陸上部の後輩たちが轟かせる雷管を夕暮れの窓の外に聴きながら、オピニオン記事もどきの下書きをフェルトペンでなぞっていく。おのずと上半身が机に乗り出す格好となる。

そこで、聖子ちゃんカットのちょいワル女子が背後から一言。「おお、なべさん、いいケツしてんな!」。ハードルで鍛えてきた甲斐があったというものだ。

顔にはなんのプライドもないが、昔からお尻には自信があった。自身のアイデンティティを形成する中核部分だ。でも、このお尻もいずれはみすぼらしく垂れていくことだろう。最期は骨と皮だけになってしまうかもしれない。

コンピュータにアップロードされたなら、このお尻はどうなってしまうのだろう? どのバージョンがアップされるのだろうか?

このあたりで読者の声が聞こえてきそうだ。いやいや、お前の尻のバージョンなどどうでもよい、そもそも肉体は保たれるのか、と。

美尻の伏線を忍ばせた初回の連載記事を仕上げるにあたり、義理の父親に読んでもらった。だが、父はびくともしなかった。わたしなりに、めいっぱい死の恐怖を煽ったつもりだったのに。

でも、同時におもしろいことを言われた。必ずしも死を怖れていなくても、アップロードされたいと思う状況はあるだろう。まずは、アップロード後の世界がいったいどのようなものか教えてほしい、と。

一言で言えば、現実世界と見紛うばかりの世界が、あなたを待ち受けることになる。まさかと思うだろうが、多くの哲学者が、わたしたちのこの世界、そして、わたしたちのこの身体が、宇宙の超文明によるコンピュータ・シミュレーションである可能性を否定できないと考えている。逆説的ではあるが、あなたがアップロードされた暁には、今この瞬間、あなたを取り巻く世界と一切遜色のないリアリティを目の当たりにすることの傍証だ。

そのことを実感してもらうべく、また、前回記事で取りあげた「死を介さない意識のアップロード」の鍵をにぎるブレイン・マシン・インターフェースの満たすべき要件を紐解くべく、ひとつの思考実験として、環境―身体―脳の順でデジタルに置き換えてみよう。


第一種デジタルとの遭遇:環境

まずは最初のステップとして、環境をデジタル化する。これは、現在の仮想現実技術そのものだ。ヘッドマウントディスプレイで仮想の景色を見せ、ヘッドフォンで仮想の音を聴かせる。VRスーツを装着すれば、痛みなどを感じさせることも朝飯前だ。昔からの友人であり、触覚研究の大家である渡辺淳司さんから聞いた話だが、時間差でお腹と背中へと振動を与えると、槍で貫かれたような感覚が生じるらしい。もっとも、槍で串刺しにされた実際の感覚を生きて語れる人はそう多くはないだろうが。(仮想現実によるリアリスティックな一人称体験は防災の役にも立つだろう!)

この環境のデジタル化は、身体とそこにちりばめられた目や耳などの感覚器はそのままに、仮想世界と現実世界の界面を、薄皮一枚隔てた身体の外側に置いた状態にある。


第二種デジタルとの遭遇:身体

次のステップは、身体をデジタルに置き換えることだ。これは、映画「マトリックス」の主人公、ネオの状態に相当する。

「マトリックス」を観たことがあるだろうか。昨今の学生に訊いても、ちらほらとしか手が挙がらず心が折れそうになる。ただ、1999年の公開が、もはや彼らの生まれる前になってしまったことを考えれば致し方ないのだろう。意識のアップロードの目標開発期間の20年がいかに早く経ってしまうか、身の引き締まる思いだ。

それはさておき、映画冒頭の第二シーケンス、キアヌ・リーブス扮するネオは机でまどろんでいる。暗い室内の片隅には、うす汚れた電子機器が積みかさなり、机の上は雑多な物にあふれている。どこからどうみても、現実の“汚部屋”にしかみえない。しかしながら、それは巨大コンピュータの紡ぐ仮想現実にすぎない。

目に映る部屋の様子も、指から伝わってくるキーボードの感触も、はたまた、その指そのものも、あくまでコンピュータが彼の脳に体験させているものだ。

さきほどの仮想現実が、目や耳などの感覚器を介して仮想世界を脳に体験させるのに対して、ここでは、それらすべてをバイパスし、脳とコンピュータが直結されている。首根っこに装着された、見るからにえげつないブレイン・マシン・インターフェースを介して。

感覚器にしても、身体の筋肉にしても、電気信号で脳とやりとりしている。であれば、それらの配線を完全に復原し、さらには、各種感覚器からの感覚入力と、脳からの運動指令にしたがう身体の振る舞いを、仮想世界にたたずむ仮想の身体で完璧に再現したなら、脳は完全に騙されてしまう。ネオ同様、当の本人からすれば、実世界とまったく見分けがつかない。

ちなみに、身体に張り巡らされた感覚器は、外界のみを受容するものではない。内蔵や筋肉の状態などもその対象となる。

わたしが滞在したドイツ・チュービンゲンのマックスプランク研究所には、内臓感覚を研究するグループがあった。あるとき、そのメンバーから風変わりな実験の相談を受けた。サルの肛門に風船のようなものを入れて、それを脳計測中にふくらますらしい。食事中の方には申し訳ないが、直腸への圧迫によってわたしたちは便意を感じている。ふくらんだ風船で直腸を圧迫することで、脳の“便意感覚”の在り処を明らかにしたいとのことであった。

これらの知見をもとに、コンピュータ・シミュレーションによる仮想の直腸に、仮想の便をため、仮想の圧力受容器からの信号をわたしたちのナマの脳に伝えたなら、わたしたちはリアルに便意を感じることになる。


第三種デジタルとの遭遇:脳

第三ステップでは、唯一、生体組織として残っている脳をデジタル化する。
そのプロセスを考えるうえで参考になるのが、哲学者チャーマーズによる思考実験「フェーディング・クオリア」だ。直訳すれば“薄れゆく意識”である。

ここでは、脳のニューロンを一つずつ、脳に「バレないように」シリコン製のものに置き換えていく。脳にバレないの意は、もとのニューロンの配線をそっくりそのまま再現し、さらにニューロンの入出力特性を完全に模擬することで、残る生体ニューロンに影響が一切及ばない状況をつくることだ。

ひとつ、また一つと置き換え、すべてのニューロンがシリコン製のものに置き換わったとき、はたして、わたしたちの意識はどうなるだろうか。フェーディング・クオリアの名は実は反語形であり、考案者のチャーマーズは「意識はフェードしない」、すなわち、意識はそこに宿り続けると考えている。

ただ、この思考実験の末にできあがるのは、複雑な三次元配線が施され、数千億のシリコン製ニューロンが超並列的に動作する“鬼ハードウェアデバイス”だ。わたしたちの目の黒いうちに実現する目処はたっていない。

また、仮にできたとしても、環境および身体をシミュレーションするコンピュータとは別に、ひとりにつき一つずつ専用のデバイスを用意することになる。結果、意識のアップロードは非常に高価なサービスとなってしまう。

わたしは団地生まれの団地育ちであり、わたしのなかには団地魂が色濃く宿っている。小学校の高学年から中学にかけて5年間を過ごした千葉のとある街では、むしろ、一軒家地域に住む金持ちはからかいの対象であった。もちろん、子供心にやっかみ半分ではあったのだが、いずれにせよ、「銀河鉄道999」のような、一部の金持ちだけが機械の身体を手にでき、永遠に生きられるようなディストピア世界はまっぴらごめんである。

おそらく非保険適用となる外科手術が必要なため、無料同然というわけにはいかないだろうが、意識のアップロードの費用は極力抑えたい。そのためにも、仮想の世界や身体と同様、デジタルの脳も通常のコンピュータにおさめておきたいところだ。そうすることにより、一台のコンピュータに何人でもアップロードできるようになり、一人あたりの費用の大幅な削減につながる。コンピュータであれば、いくつものアプリを同時に立ち上げられるように、幾人もの意識を同時に計算できるからだ。

当然のことながら、値段と引き換えに、アップロードされる人数が増えれば増えるほど、デジタルの仮想世界のなかで流れる時間は遅くなっていくわけだが。(初回連載に登場したグレッグ・イーガンの「順列都市」同様、外の人とコミュニーケーションをとらない限りは、中の人は気づかないので安心してほしい!)

そこで、意識の宿る脳をコンピュータに収めるべく、オリジナルのフェーディング・クオリアでは頭蓋におさまるニューロンをシリコン製のものに置き換えていったところ、コンピュータのなかに一つずつ移し替えていくことを考える。コンピュータによってシミュレーションされるニューロンの入出力特性と、ブレイン・マシン・インターフェースによる脳とコンピュータの配線が、もとのニューロンとその配線を完璧に再現したならば、1つ目のニューロンについては、チャーマーズのフェ―ディング・クオリア同様、残る脳は一切影響を受けない。

ただ、2つ目以降のニューロンの移し替えは少々事情が異なる。すでにコンピュータに移したニューロンと脳のなかでつながっていた可能性がでてくる。ただ、それにしても、つながっていたニューロンどうしのやりとりも含めてコンピュータで面倒をみることで、やはり、脳にバレない状態をつくることができる。

そうやって、脳のニューロンをコンピュータにひとつずつ移し替え、頭蓋にのこるニューロンが最後の一つになっても、また、その最後の一つを移し替えたとしても、脳の情報処理の本質はコンピュータのなかに変わらず存在しつづけ、わたしたちの意識もそこに宿り続けるに違いない。

シミュレーション仮説

こうして、環境、身体、脳の順でデジタル化し、すべてがコンピュータのなかに収まったとしても、わたしたちの意識はそれとは気づかずに存在し続ける可能性が高い。

冒頭でも触れたが、わたしたちの世界、そしてわたしたち自身が、宇宙の超文明によるコンピュータ・シミュレーションにすぎない可能性がある。荒唐無稽に思えるだろうが、ここまでの内容を踏まえ、よくよく考えてみてほしい。決して、論理的には否定できないことがおわかりだろう。

しかも、最初の提唱者である哲学者ニック・ボストロムの「シミュレーション仮説」によれば、わたしたちがリアルである確率よりも、シミュレーション世界の住人である確率の方が圧倒的に高い。

実在宇宙のなかで、恒星からほどよい距離の惑星に居合わせ、生命誕生の奇跡にめぐまれ、自らの種が超文明を有するまでに進化し、その結果として幸運にもシミュレーションする側にまわる確率と、逆にされる側にまわる確率とでは、断然、後者の方が高い。仮に、わたしたち人類にそのような力が備わったなら、個人の趣味のレベルで、それこそ星の数ほどのシミュレーション世界がつくられてしまうだろう。

でも、ここで素朴な疑問がわく。わたしたちの住む世界が宇宙の超文明によるシミュレーションだとしたら、そのなかで意識のアップロードを目指すことなど許されるだろうか。ただ、さすがは哲学者、そんな入れ子構造も想定内と先回りに余念がない。

実のところ、相当に難解なため、なかなか評価されないマトリックス第二作はこのことを扱っている。主人公のネオは、健全なシステムを維持するために、“創造主”が仕組んだ反乱者だったのだ。わたしもそうだとしたらどうしよう!?

(つづく)

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