これから日本は「いっそう人に冷たい社会」になる…どんどん貧しくなる時代に”幸福”をつかむための最終手段
「いったい私たちは何のために生きるのか」
とまらない物価上昇、現実味を帯びる「スタグフレーション」
皆さんもご承知のとおりかと思われるが、近頃は世間のどこを見渡しても値上げばかりが続いている。食品からエネルギーまで、ありとあらゆる生活必需品の供給が不安定になり、私たちの日常生活を脅かしている。
このインフレは、21世紀の到来とともに人類社会が克服したと(すくなくとも先進社会では)考えられてきたはずの不確実性――戦争や疫病など――によってもたらされた。私たちはまるで20世紀のはじまりにタイムスリップしてしまったかのような、奇妙な感覚で不確かな毎日を過ごすことになってしまった。
インフレが起こっても、それにともなって賃金が上昇すればよいのだが、残念ながらそうなってはいない。所得は増えずに物価だけが上昇する「スタグフレーション」がいよいよ現実味を帯びてきている。多くの人の賃金が増えないまま物価だけが上昇していけば、それは単純に人びとの生活がどんどん貧しくなっていくことと同義だ。受け取る給与の額面は変わらないのに、実質的な価値がどんどん目減りしていく自分のお金を、それでも必死に防衛するような、閉塞的で息の詰まる時代がすぐそこまでやってきている。
すでに働く人のなかには、食費を切り詰めるために昼食を抜く人さえ現れ始めている。飯を食べて生活するために働いているのに、働いても飯を抜かなければ生活できないというのは本末転倒の極みだが、これが「スタグフレーション」の時代ではひとつの日常風景になってしまう。
緊縮的なポピュリズムへの支持が高まっていく
自分の手にしたお金の量は増えないのに、その実質的な価値がなにもしなくてもどんどん目減りしていく時代には、人びとは否応なく「自衛」を求められる。
とどまることを知らない経済的悪状況のなかで、多くの人が「自衛」を意識するようになった社会は、全体的に「余裕」をなくしていく。物理的な意味でも、精神的な意味でもだ。これまでなら、社会がそれなりに豊かだったからこそ用意されていた「余白」も、どんどん切り詰められていくことになるし、そのような流れに、だれも異議申し立てしなくなる。いや、異議申し立てどころか、むしろ「自分がこんなに切り詰めて必死に生きているのに、そうしないで楽をしている人間がいるのはフェアではない」と考えるようになる。
大衆社会のマインドの変化を政治の世界も敏感に察知する。政治の世界では「みんなが大変な思いをしている時代に、無駄金を浪費しているようなセクションを倒していく!」と訴える緊縮的なポピュリズムがますます人気を博していく。すでにそのような兆候は見え始めている。
まさにそのような「緊縮的ポピュリズム」的なメッセージ性を打ち出して人気を博す日本維新の会は、今夏の参院選でも大きな躍進の可能性がある。朝日新聞が3月15日~4月25日に実施した世論調査では、「仮にいま、投票するとしたら」と前置きをした上で、参院選の比例区の投票先を聞いたところ、維新が17%だったという。3年前の参院選を控えた調査では、維新は6%だった(朝日新聞デジタル「次の参院選比例区、維新に勢い 朝日新聞世論調査」2022年4月29日)。
年金制度、医療/介護制度に疑問を持つ人が増えるだろう
これまで「余裕」があったからこそ、だれもが問題にしなかった――いうなれば、お目こぼしされていた――社会の諸問題が次々と議論の俎上にあげられていく。たとえば年金制度や医療/介護制度は、まず間違いなくいまのままの姿では持続可能性がないことを、多くの人が「どうしてみんな、今までこのことに関心を持たなかったのだろう?」と考えるようになるだろう。
社会的な価値観や規範意識が全体的に「自己責任」の方向に先鋭化していくことになる。この時代において生活が立ちいかなくなったり、あるいは落伍してしまったりした人に対する世間からのまなざしは厳しくなる。だれもが全力を賭して「自衛」するべき時代だということが分かり切っているにもかかわらず脱落してしまった人は、つまりそれを怠ったのだ――という結果責任が強調されてしまうからだ。
「厳しい時代なのだから『自衛』をするべき」が社会的合意になった世界で失敗すると、再チャレンジの余地が与えられるのではなくて「自衛をしなかったからそうなったのだ」と突き放される。
社会に余裕がなくなるほど「自己責任論」は強くなる
これはいまにはじまったことではない。バブル崩壊、リーマンショック……未曽有の大不況が訪れるたびに顕在化してきた事実である。私たちの社会は、余裕がある時には他者にやさしいが、他者へのやさしさが本当に必要とされる厳しい時代には手の平を返す。晴れた日には傘を貸してくれる親切な人はたくさんいるが、雨が降り出すとだれも傘を貸してくれなくなる。
結論から書きますが、スタグフレーションから身を守るためのたったひとつの方法は、「貧乏になることは避けられないので、お金と幸せについての考え方を変える」です。
これは決して冗談ではありません。多くの人にとって、これからでもできる根本的な対策は、これしかありません。今の生活や収入にこだわる考えを変えて、もっと小さな幸せについて向き合い、お金のかかることを諦めるしかありません。
(中略)
「なんだ、精神論か」と言いたくなる人もいると思います。しかし、逆に言えばスタグフレーションには精神論ぐらいしか有効な対策はないのです。それほどにスタグフレーションは大きな現象です。
(cryptocoinchef「スタグフレーションが始まった – 自分を守るために」2021年9月19日より引用)
「得たものが失われていく」ことには苦痛がある
スタグフレーションは国際的な外部要因と政治的リスクが合わさって起きるもので、庶民にできることはきわめて少ない。過去にはオイルショックがまさにそうだっただろう。スタグフレーションに市民一人ひとりができるミクロな努力は、せいぜいお金に対する考え方を変えてやり過ごすこと、とりわけ「お金があるから幸せである」という考え方から一定の距離を取ることだ。
だが問題は、オイルショックの時代とは違って、現代社会は多くの人が相対的に豊かな生活をしていることだ。人間は「これから得られるはずのものが得られなくなる」ことよりも「すでに得ていたものが失われていく」ことの方が――たとえ最終的な着地点は両者とも同じだったとしても――耐え難い苦痛を感じる。がらりとマインドセットを変えて「相対的な剝奪感」を克服していくのは至難の業になる。
欠落感から懲罰意識が生まれ、世の中全体がギスギスしていく
人にとって「得ることをあきらめる」よりも「一度得たものを手放す(奪われる)」ほうが、はるかに難しい。「豊かさの再考」は、たしかにスタグフレーションの時代における重要なテーマのひとつとして、これからメディアでもしばしば言及されるようになるだろう。しかしながら、楽ではない。多くの人にとって想像以上の苦痛をともなう作業になる。たとえば衣食住の上質さにこだわっていた人は、そのこだわりを棄てなければならないのは、体の一部が欠落したかのような喪失感がある。
自分の大切ななにかが欠落していくような痛みは、知らず知らずのうちに心をささくれ立たせ、世の中が全体的にギスギスしていくようになる。自分が欠損しているのに、なんの欠落もなく「のほほん」と生きている人間をみると、それだけで暗い感情が湧き上がってくる。だれもが自分の倫理性や社会適応度にこだわりながら、「倫理的でない者」「不当な金儲けをしている者」に対する激しい嫌悪感や懲罰意識を持ち、実社会でもネットでも「炎上」が続発していることは、おそらく偶然ではないだろう。
「脱成長」の主張が一定の評価を受けるようになる
暗い未来ばかりを予感させる「スタグフレーション」の時代は、しかし他方で大きな社会変革の可能性を持っている側面もある。
マイケル・サンデルが近年に行っていたような能力主義批判が、それなりの注目を集めながらも実際的な取り組みとしてはフィードバックされなかったのは、彼の主張に現実性や説得力がなかったからではない。能力主義が依然としてそのヒエラルキーの勝利者に十分すぎるメリットを提供していたからである。能力主義が大きな社会的不公正を内包していると世の人びとは気づいてはいたが、しかしそうはいっても、その不公正に目をつぶるくらいには「うまみ」を自分たちに与えてくれていたからこそ訣別できなかったのだ。
だが「スタグフレーション」はすなわち「成長を失う社会」を現出するものでもあるため、旧来的な価値観のまま能力主義的な序列化構造と自己責任論をいくら擁護しても、かつてほど「勝利者としての“うまみ”」が得られなくなっていく。能力主義が人びとにこれまでのようなメリットを提供できなくなれば、だれもが別の形で幸福を模索することを余儀なくされる。
いままで「精神的な豊かさの方が大事だ!」と言っていた、いわゆる「脱成長論」系の論者がいまひとつ大衆社会からの支持を集められなかったのは、結局は「脱成長」によって得られるメリットよりも、能力主義とそれに紐づいたメリットの方がずっと大きかったからだ。経済成長から積極的に背を向けるかれらのラディカルな「脱成長」の主張は依然として机上の空論として扱われるかもしれないが、経済的成功と個人的幸福を強く結びつけることへの批判という側面では、かれらがまったく予想していなかったであろう時代の偶然によって再評価されることになる。
本当の意味で「多様な幸福を見つけ出すこと」が求められる時代になる
本当の意味で「多様な生き方(多様性)」が問われるのはこれからかもしれない。
これまでの時代に見出されてきた「多様性」は結局のところ、生産性や合理性の評価軸から抜け出すことはかなわなかった。次々に提唱される「新しい生き方」はいずれも最終的には経済的優位性・経済的合理性をどうしても意識しなければならなかった。それ自体が資本主義を脱構築するものではなくて、資本主義からこぼれ出てしまう人を補完的に包摂するオプション――もっといえば、既存の資本主義社会をより万全なシステムへと補強するためのサポート役――になってしまっていた。
しかし「スタグフレーション」により、能力主義的な序列化と経済優位性をベースとしていない、本当の意味で多様な幸福を見つけ出す営みを、否応なしに要求されていく時代になる。荒涼とした「自衛」の時代の果てに、カネだけをひたすらに防衛することに人生を費やしてきたことへのむなしさがやってくる。
いったい私たちは何のために生きるのか?
カネを稼ぎ、それを守るために生きるのか?
その問から私たちは逃げられなくなる。
私たちが本当の「幸福」を見出せるとしたら、そのときかもしれない。