「DXブーム」に騙されてはいけない…「デジタル人材が不足している」と嘆く人が根本的に勘違いしていること
産業界では「DXのためにデジタル人材が必要」といった声がよく聞かれる。どうすればいいのか。福井県立大学名誉教授の中沢孝夫さんは「基本的に日本の企業は、どこでも必要な人材は『不足』しているものである。デジタル化人材だけが不足しているわけではない」という――。
※本稿は、中沢孝夫『働くことの意味』(夕日書房)の一部を再編集したものです。
■「創造はゼロから始まるものではない」
いまや世界を代表する知識人といってもよいフランスの歴史学者エマニュエル・トッドが、「創造というのは本当にゼロから始まるものではなく、すでにある要素をこれまでにないかたちで関連づけることで生まれるものなのです」と語りつつ、「私は膨大な知識を蓄積してきました」。そして「自分はプロフェッショナルであると私は思っています。たとえば整備士がプロであるのと同様に。私が知識人かどうかはともかく、知識人に本当に必要なのは、プロフェッショナリズムなのだと思うのです」と述べている(『エマニュエル・トッドの思考地図』筑摩書房、2020年12月)。
ここで言われている「創造というのは本当にゼロから始まるものではなく」という説明が大切だということは、職場でデータを集め、現場を歩き、その道のプロから話を聞くとよくわかるのである。むろんこの「プロフェッショナリズム」に関しては、すでに小池和男などが、自動車工場のラインの仕事に従事している勤労者の、仕事への配置と技能向上の事例について、とても見事に実例をもって示している。
■自動車工場のライン工もプロフェッショナル
小池は次のように説明している。「新車モデルの設計につき、それを製造するブルーカラーの一部が発言し提案する」、「設計に構想設計と詳細設計があり」、「もっとも肝要な基本構想をしめす構想設計の段階に、ブルーカラーがよばれ意見を求められる」、「(かれらは)監督者層一歩手前の勤続10~15年」の経験者である。
彼らは設計について習ったわけではない。しかし「製造経験にもとづく」発言をする。それは「こういった設計では組み付けしにくい。品質不具合がでやすい。もうすこし組み付けの手が入りやすいように広げてほしい」といった意見がでる。設計者たちはその提案のすべてを受けいれるわけではないが、合理的なものは当然とりいれる。
とくに1990年代の末頃から、IT情報技術が導入され、3次元の図が提示されるようになったので、職場の人間の発言機会は増えている(小池和男『仕事の経済学[第三版]』東洋経済新報社、2005年3月、藤本隆宏・新宅純二郎・青島矢一編著『日本のものづくりの底力』所収、小池和男「高業績職場と人材の真の力」東洋経済新報社、2015年2月)。彼らはトッドのいう「プロフェッショナル」なのである。
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中小企業の現場でも同様である。筆者のASEAN諸国での実態調査の経験から見ると、熱処理、板金プレスなどの工場で、日本から現地指導に行った職工たち――日本のマザー工場で10年、15年と働いてきた――は、言葉がわからない初期の立ち上げの頃から、「やさしい仕事から、だんだん難しい仕事を、やってみせて覚えてもらう」ことによって、他国の勤労者に技術・技能を移転していた。
■不足していると言われる「デジタル人材」とは何か
たとえば、製造業でいえば新しい製品を開発する力はどのようにもたらされるのか。あるいはサービス業の場合、他と異なったサービスの流れをどのようにつくるのか。そのことを考えてみよう。
それは、近年流行しているDX(デジタル・トランスフォーメーション)なる言葉と関わっている。
日本経済新聞の特集によれば(2021年12月6日)、産業界ではデジタル人材の育成を推進するため、社員の意識改革を促す有益な情報はないか、との声が寄せられているとのこと。「産業界ではデジタル化を進める人材が不足している」そうである。その理由のひとつに「誰が何を学べばいいのか」という「道しるべがはっきり示されていない」からだと。「デジタル技術にアクセスし、目的のために使う能力」をデジタルリテラシーというそうだが、要するにデジタル技術というのは「方法論」であり、その「道具」だということだ。
しかし社内の技術を中心とした「情報の共有化」は、どこの企業でも可能な限り進めている。その「人材が十分」かどうかは企業にもよるが、基本的に日本の企業は、どこでも必要な人材は「不足」しているものである。デジタル化人材だけが不足しているわけではない。
ただ仕事上で大切なことは、社内に「目的(課題)設定能力」があるかどうかである。それは新たな商品(製品)やサービスを開発するだけでなく、すでにあるものを改善・改革することも含まれる。
■パソコンによる情報共有だけでは意思疎通は図れない
私たちが手にしている「情報」は、基本的に「既知」のものである。むろん既知のことを整理し、組み合わせを変えたりすることによって、新しい方法が開けることはある。だからそれは大切な方法論である。
ただ、AI(人工知能)と呼ばれているものが典型だが、巨大コンピュータにデータを投入する作業の「何をどのような目的で」という初期設定は、個々人の目的意識と価値観によって決まる。それはあくまでも「既知」の解析である。
仕事で大切なことは、「未知」のことが価値を生むという理解だ。それは往々にして不確実でリスクを伴う。それゆえ現実に開発が進んでいる技術やサービスはIoTなるもので察知できるものではない。それは同じ社内ですら全体で共有したり察知したりもできない。個々人の能力、ものの見方、考え方に、それぞれ異なりがあるからだ。共有できる領域も限られてくる。
単純な話が、パソコンによる情報の共有によって、社内の人間がお互いに何を考え、何に取り組んでいるかなど、わかりようがないのである。仕事は基本的に話し合うことによって始まる。それぞれが考えていることを、「摺り合わせる」ことによってこそ仕事は進むのだ。
かつて(2010年に発表された)経済産業省とビジネスジャーナリズムが組んで、ドイツ発の「インダストリー4.0」なる壮大なデマがものづくりの世界を席巻した。それはIoTの発達によって、一国の技術が企業の大小や種類が異なっても共通化するというものであった。しかし事実はまったくの夢物語で雲散霧消した。
それぞれの企業の持つ技術は、固有性があり、他と異なっていることによって成り立つ。
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■製造業に「単純作業」は少ない
生まれつきの頭の良さという恵まれた遺伝子を受け継いでいる人は、もちろんいると思う。しかしプロフェッショナルというのは、多くは「継続」による知識の増大によってもたらされるものである。
たとえば、自動車工場のおもに組立に携わるラインで働く人たちの働き方を見ていると、このプロフェッショナルという指摘がよくわかるのだ。彼らは単純労働に見える仕事に従事しているが、長時間観察していると、さまざまな「予期しないトラブル」に見舞われ、そのたびに変化への対応が必要となる。
また工程に不必要な負荷がかかる仕事に従事したとき、組立工たちは、その負荷、つまり怪我をする危険性や、腰を痛める可能性、あるいは身体の特定な部分の過度な疲労に直面したとき、どうすればその工程がラクになるのかを考える。
その考えた結果を仕事に生かすことによって、ラインが確実に変化し、負荷が減少する。その負荷の減少は生産性の向上をもたらす。またラインの仕事は、ラインへの日々の対応だけではなく、製品の変化(製品の微修正や新しい製品の登場)やそれに合わせたラインの修正などがいつもあり、変化への対応はいつも新しい出来事である(中沢孝夫・赤池学『トヨタを知るということ』講談社、2000年4月)。
もともと製造業の現場に「単純労働」といわれる領域は少ない。単純な繰り返し作業は、自動機(ロボット)に置き換えられるのは必然である。ただしロボットに置き換えることが可能な仕事は、作業する人間がよく知っている仕事である。現場を知らない人間がコンピュータにより自動機を設計したりすることはできない。
たとえばワイヤーハーネスを通して機器をつなぐなどという作業はさほど難しい仕事ではないが、組み立てる対象によって、長い線、短い線、太い線、細い線、また本数、通す箇所の違いなど、無数に違いがあり、結局は手作業になるといった領域もある。
あるいはマイクロエレクトロニクスの進化は、金属工作機械などの場合――猪木武徳が指摘するように――働く人たちの技能と技術は、変化する段取りの重要性、故障の予知など非定形的な作業が多く、いつも新しい状況への対処能力によって形成される。つまり人間の知力が問われている(猪木武徳『経済思想』岩波書店、1987年7月)。
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■AIが自身の価値観と目的意識で行動することはない
以上のような「継続によるプロフェッショナル化」は長期雇用を必然化させる。むろん近年の景気の「長期停滞」と情報化の進展は、雇用に内実を変化させている。
筆者が若い頃に経験した郵便局での方面別の区分作業(仕分け作業)のような、単純であらかじめ作業内容がはっきりしている仕事の場合は、郵便番号による自動区分機に置き換わる。つまり自動化するのである。何百人分の仕事が、一人の担当者によって行われている。
近年は、従前からあった「技術革新」という言葉ではなく、AIで、とかDXにより、といった表現が溢れているが、技術の進化内容が飛躍的に変わったという事実はない。
大型コンピュータの発達が、データの大量投入とその解析を可能とするようになっただけであり、繰り返しになるが、コンピュータ利用の目的意識、つまり何の目的で、どのようなデータを投入するのかということと、それを担保する価値観は、コンピュータ自身にはない。
たとえば、囲碁や将棋はルールと勝負のデータの蓄積が可能だが、あくまでも過去のデータであって、AIが自分の価値観と目的意識によって行動することはない。「きょうは囲碁をやめて、麻雀でもしようか」といった複合機は存在しない。
あるいは切削のマシンは切削が高度化するが、ついでに研磨やメッキ加工、熱処理可能ということはない。みな単能機である。それゆえ『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊著、角川EPUB選書、2015年3月)という問いかけは無意味なのである。人間には無数の多様性があるのだ。まあ本のタイトルなどというものは「売れればよい」のだから、目くじらを立てるほどのことでないのかもしれないが。
■企業にも個人にも働き方の転機は訪れる
その多様性にこそ人間の成長と転機とがある。つまり「学び方」ひとつとっても、そこには意味や方法がさまざまに伏在している。明瞭な目的を持った学び方というものが確かにあるが、「なんとなく知りたい」ことに分け入り、だんだん深みにはまり、ついには専門化する、ということも人生には何度もあるものだ。もちろん企業に転換期があるように、個人にも転換期がある。
それゆえ、「40歳定年」論とか、リカレント教育(論)とか、学び方、教え方を仕事とからめて一般化して論じるのはとても難しい。
「ジョブ型雇用」か「メンバーシップ」か、などという雇用制度論などに関わる場合は、濱口桂一郎氏のように言葉の定義をはっきりさせる必要がある。「ジョブ型は「職務記述書」が示されますが、職務のタスク(課業)のレベルの違いがあり、同一労働・同一賃金はタスクが同一である場合」(『ジョブ型雇用社会とは何か』岩波新書、2021年9月)である。配置転換によりいくつもの仕事を覚え、職務(ジョブ)を深めていく、という「配置の柔構造」が日本の会社からなくなることはない。
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■日本で「一括採用」が主流である理由
働く側もいくつもの職務に従事し、一つの仕事だけではなく、前後左右の仕事を覚えることによって視野がひろがり、面白さや他者のやり方から学んだりするのが当たり前の方法である。
それゆえ、若者の学校の卒業期(おもに銘柄大学)に、一括採用を中心とする大企業の採用習慣を「転換」すべきだと叫ばれても、変化の兆しはほとんど見えない。もちろん銘柄大学中心の新卒の採用方法には批判がある。だが、学校歴を消去して試験をしても、論文もその他ペーパーテストも、またディスカッションをしても、成績が良いのは銘柄大学になってしまうのが実際だ。
とはいえ、もともと雇用全体の70パーセントを占める中小企業では、私の調査では、ものづくりの関連労組のJAMなどは、組合員の半数以上が中途採用者である。新卒の採用よりも、転職者の採用のほうが多く、とくに、20人、30人規模の会社はほとんどの人間が中途採用である。新卒で入社し、定年退職までずっと勤務している者は稀といってもよい。しかし何回かの転職は、職種が異なっても、人間関係管理や新しい仕事を覚える楽しさ、あるいは辛さなどを経験して自らを成長させるものである。
また20年、30年と働いていると、職場の全体、取引関係、これからの半年とか1年といった先の仕事の見通しが見えてくることがあるが、それがおそらく「転機」となってくる。十分な思考を働かせ、チャレンジする意欲が沸く場合はよいのだが、場合によっては、この仕事に積極的な意味があるのかというネガティブな気分に陥ることがある。
ただ、繰り返して言うが、正規雇用の公務員などを除くと、長期雇用(採用から退職まで)の職場のほうが少数派なのが実態だ。たとえ大企業であっても、中途退職が強いられる場面はいつでも見られる。それは年齢とは無関係である場合がしばしばであると言ってよい。むろん年金制度の変化や、一般的な健康年齢の長期化により、法を背景とした定年の延長はあるとしても、一部で叫ばれている「40歳定年」が制度化される可能性はないと言ってさしつかえなかろう。
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中沢 孝夫(なかざわ・たかお)
福井県立大学名誉教授
1944年、群馬県生まれ。博士(経営学)。専門は、ものづくり論、中小企業論、人材育成論。高校卒業後、郵便局勤務から全逓本部を経て、45歳で立教大学法学部入学、1993年卒業。海外を含む2000社以上の企業からの聞き取りをし、ミクロな領域で研究活動を行ってきた。著書に『中小企業新時代』(岩波新書)、『グローバル化と中小企業』(筑摩選書)、『就活のまえに』(ちくまプリマー新書)、『転職のまえに』(ちくま新書)、『グローバル化と日本のものづくり』(藤本隆宏氏との共著、放送大学教育振興会)などがある。
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