共産主義

「共産主義」と一口に言っても物凄い種類の主義思想を含みます。その一つの形をほぼ完全に実現し、長期的に成功した社会、としたら「無政府共産主義」を実現させた「イロコイ連邦」(1450年~1794年)を挙げます。

実質的に個人所有権・経済的格差を廃止し、共産主義の理想である「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」を実現させました。

それは19世紀後半のロシアの革命家と共産主義思想家、ピョートル・クロポトキンが考案した共産主義の形とほぼ同じ物でした。

えー、多くの方は「無政府共産主義とは何ぞ?」と思う方が多いかと思います。アメリカでも日本でもですが、

社会主義=共産主義=スターリン/毛沢東主義

の様な公式が多くの方の頭の中にありますが、これは大きな過ちであります。

共産主義も社会主義も基本的に「労働者・一般市民の生活向上、格差の軽減」を掲げますが、その実現方法には多種多様な考え方が提案されてきました。

大雑把に分けると、社会主義と共産主義は3つの方法で分ける事が出来ます。

1)民主主義を受け入れるか、入れないか

2)生産を可能とする資本の個人所有を受け入れるか、入れないか

3)中央政府が強くあるべきか、弱くあるべきか


例えば、スターリンの共産主義は

  • 1)民主主義を否定
  • 2)中央政府による資本の支配(個人所有権を大方否定)
  • 3)強力な中央政府

等と言う思想を持ちます。

対照的に、例えば現在のドイツ首相オーラフ・ショルツ、ドイツ社会主義党(SPD)は

  • 1)民主主義を肯定
  • 2)個人による資本の所有を認める
  • 3)個人人権を重視するそこそこに力の中央政府(中道)

等と言えます。基本的にスターリンとは大分違いますが、SPDは明確な社会主義政党の一つです。

えーしかし、スターリンの正反対に近い形の共産主義を提案した人達がいます。「無政府共産主義者」と呼ばれました。

無政府主義とは中世にまでヨーロッパで遡る思想であり、基本的に「国家」や「中央政府」等は社会に必要な物では無く、王や貴族による圧政の道具と言う主張が存在しました。無政府主義の原型においては、政府をほぼ無力化させ、村レベルで民主的に自治を行う事が最善とする思想でした。

この思想の流れにマルクスの共産主義宣言は影響を与え、非常に「労働者の楽園」がどのような形を取るのか説明が無かった為、一部の無政府主義者は共産主義の「階級の闘争」の考えに感銘を受け、無政府主義と共産主義の考えを合わせた「無政府共産主義」と言う思想を発達させていきました。

例えば、19世紀後半のピョートル・クロポトキンはロシアの革命家・政治学者で無政府共産主義の発達の重要な思想家となりました。

大雑把にクロポトキンの理想社会はこの様な考えでした。

  • 土地、資本(工場、その他)等は社会に共有され、個人資産の否定。お金は廃止される。
  • 食べ物、衣服、家等は必要に応じて支給される。
  • 個人所有の物(衣服、日常的に使う仕事道具)等は尊重される。
  • 中央政府は最低限の権限を持ち、国家の防衛と外交のみに集中する。
  • 圧倒的に村レベルの政府が取り決めを託され、村・市レベルで人々は資本を共有する。生産された食べ物、品物は必要や望みに応じて公平に村政府が支給。
  • 政府は民主主義的な投票で指導者を選び、常に人権や投票権の尊重は絶対とする。政府が不公平な支給を行おうとすれば、選挙で負ける。

クロポトキン自身はロシア人でしたが、クロポトキンの考える「非集中系政府思想」はいまいち多くのロシア人にはピンと来なくて、むしろ強力な中央政府を提唱するマルクス・レーニン主義(共産党)に支持者が増えていきました。

クロポトキンは1921年に亡くなるまでレーニン主義・ボルシェビキ党を「羊の皮をかぶった独裁主義」と猛烈に批判し続けていましたが、ロシアではあまり聞き入れられませんでした。

しかし、逆にクロポトキンの思想が非常に受け入れられたロシア帝国の属国がありました:ウクライナでした。


ウクライナは17世紀よりロシアの保護国、そして帝国領となっていき、20世紀初頭までロシア帝国の一部でしたが、独自のコサック文化等を持ち、19世紀より民族独立思想が広まるにつれて、ウクライナでも「ウクライナの独立」を掲げる革命家が出現しました。

ウクライナにおいては長年のロシア政府の圧政より生活してきた為か、クロポトキンの「中央政府は圧政の象徴」「無政府主義こそが自由への道」と言う主張は非常に好意的に受け取られ、ウクライナの共産主義革命家は「無政府共主義者」が主流となっていきました。

ウクライナのネストール・マフノはウクライナの独立と無政府主義ウクライナ共和国の設立を夢見る革命家でした。

1917年以降のロシア革命の混乱の中、ウクライナの人民の大半の絶大の支持を得てウクライナ革命軍の司令官と指導者となっていきました。

マフノはボルシェビキ党の中央政府は「独裁主義」と呼んで公然と批判しましたが、まずはロシア帝政の復権を支持する白軍に勝つ事が先決と主張してウクライナの革命軍をボルシェビキ政府の「赤軍」の指揮下に入れました。

マフノの人権思想・民主主義等への理想は言葉だけではなく、ウクライナ内ではマフノは独立戦争中であったに関わらず、言論の自由を妨げる事はまかりならんと言い、マフノや無政府主義を批判するボルシェビキの新聞の発行を妨げる事は禁じました。

また、ボルシェビキの支持者、白軍(帝政軍)等が双方ユダヤ人を偏見より「敵に味方している」として略奪や暴行を働く中、ユダヤ人の人権を守る必要性を説き、守りに動いていた地域はマフノの政府だけだったと言えます。

ウクライナとロシアは複雑な協力・ボルシェビキによる裏切りの関係を繰り返しますが、1920年末には完全にロシア政府はウクライナの征服に乗り出し、無政府主義ウクライナ軍(黒軍)が敗北した事でマフノは国外亡命、ウクライナは独立も無政府共和国の設立も果たせずに「ソ連」の事実上帝国領土とされていく運命にありました。

無政府共産主義は主流になる事は無く、主に世界の共産主義革命家の多くは大規模な成功を収めたレーニン・スターリン、後に毛沢東等の「独裁的・中央政権共産主義」が世界の模範とされていき、独自の政府を設立する事に成功できなかった無政府共産主義は実現されずに思想としては廃れていきました。

しかし、奇しくも「共産主義」の理想社会に最も近い形を実現させた国家はヨーロッパやマルクスの影響は受けず、独自の理論よりほぼ同じ社会形態を実現させて数百年の繁栄を築いた社会がありました。

アメリカの原住民の「イロコイ連邦」はほぼ無政府共産主義を実現させて、数百年間栄ました。


イロコイ連邦とは北米(現アメリカ合衆国)の中部に存在した国家でした。

1450年に設立され、最大版図は10万平方キロにもおよび、日本と比較すればおよそ関東・関西・中部・中国地方を全て合わさった面積に値するそれなりの大国であった。

イロコイ社会で独特だったのはほとんどの物が「部族」の物とされ、個人の財産や資本と言える様な物が存在しなかった事である。

以下の物は「部族」の所有物とされ、個人の独占権が認められていませんでした。

  • 土地・住居
  • 食べ物
  • 資材(材木、鉄、その他)
  • 道具
  • 衣服

等は全て部族に支給され、個人の所有物と言う概念がありませんでした。道具や衣服は「自分の道具や服」と言う物があり、毎日使う物があったが、もし壊れたり、替えが必要となれば、部族より支給される物でした。

個人所有の物は極力少なく、食品、住居、土地などは全て「部族」の物であるので、個人の物と言えるのはわずかな装飾品(ワンパムと言う貝殻を原料としたジュエリー)や銃・斧・鍬などの職業に使うわずかな品物に限られた。

なので、経済格差も窃盗も存在しなかった。

また、階級意識も原則的に無い社会でもあった。

族長の女系血筋等があり、それらより選出されたが、部族内の政治は民主的に選ばれた議会の最終決断力が高く、族長の立場は宗教的指導者・儀式的な指導者と言うシンボリックな力に限られた。

ただし、奴隷階級は存在した。主に戦争で囚われた人物であり、部族共有の所有物として扱われた。しかし、何年か後には養子としてイロコイ族の正式な一員になる機会が与えられ、大半は数年の内に自由の身となり、部族内では平等に扱われる様になる。


イロコイ連邦では男女間にも極めて平等に近い立場が約束されている社会でした。

イロコイ社会では「家系」とは母から子へ受け継がれるのものであり、社会的地位などは父の地位ではなく、母の地位が重要だった。なお、母がたの親戚と結婚する事は近親相姦としてタブーであったが、父がたの親族は他人として扱われた。

一家に配給された土地、家などは女性の管理下にあると考えられていて、私物は女性・男性のものは結婚後も別々に考えられた。もし離婚した場合は、女性が男性に家から出て行けと告げ、男性が私物を集めて出て行く事が通常であり、子供は母と残された。

部族内の政治にも女性の発言権は高く、「部族の母」議会の合意なくして政策は進められないものだった。族長は男性に限られたが、族長の後継者の任命権は族長にはなく、族長の最も近い女性親族に与えられた(通常は族長の最年長の姉)。

結果、男女合意性の平等に近い政治形態と言える近世には珍しい政治社会であった。


イロコイ連邦の中央政府の力は非常に限定的であり、主に外交と国防、国際貿易等の取り決めのみを行う為の物であり、日常的な法や規則は村・市レベルの議会・合議において取り決められていた。

中央議会は5つの部族より選ばれた五十六人のサチェムと呼ばれる男性代表に構成された。取り決めは原則的に総意性であり、総意が話し合いで得られない場合は内政の新法を作るときは3分の2票、対外的な条約を結ぶには4分の3票が最低ラインだった。

なお、男性から構成される中央議会は単独では大きな政策や条約を結べず、別に存在した「部族の母」と呼ばれる同じ様な女性代表らの議会の合意を同様に得る事が義務付けられた一種の「両院制」政府と言えた。

えーイロコイ連邦の社会をクロポトキンの提案した「無政府共産主義」と比較すると、驚くほどの一致が見られる。

  • 土地、資本(道具、工房、その他)等は部族に共有され、個人資産の否定。お金は廃止される。
  • 食べ物、衣服、家等は必要に応じて支給される。
  • 個人所有の物(衣服、日常的に使う仕事道具)等は尊重される。
  • 中央政府は最低限の権限を持ち、国家の防衛と外交のみに集中する(+貿易条約)。
  • 圧倒的に村レベルの政府が取り決めを託され、村・市レベル(部族政府)で人々は資本を共有する。生産された食べ物、品物は必要や望みに応じて公平に村政府が支給。
  • 政府は民主主義的な投票で指導者を選び、常に人権や投票権の尊重は絶対とする。政府が不公平な支給を行おうとすれば、選挙で負ける。

これらを全て実現させたと言って過言では無い。マルクスの挙げた理想である「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」の実現とも言える。


なお、イロコイ連邦は出現してすぐに崩壊した社会でも、貧弱な弱小国の類でも無い。

イロコイ社会は15世紀から18世紀末にアメリカ合衆国の白人の侵略を受けるまでは大変に繁栄した国家であり、300年の繁栄を誇った国家である。

なお、アメリカ中部のインディアン部族の中では破格の強さと積極的な拡張戦争を繰り返した国家であり、「イロコイ帝国」等とも言われる。ビーバー戦争と呼ばれる「ビーバーの毛皮」の利権を確保する為に隣国の部族を征服を繰り返し、17世紀から18世紀にかけて大幅に拡大した国家だった。

なので、「無政府共産主義」の成功例等と挙げられる国家である。

マルクスは19世紀の人間であり、イロコイ連邦が事実上滅んだ18世紀末は「共産主義」と言う理念が提案される半世紀以前。さらにクロポトキンが「無政府共産主義」の理論を提案する100年近く以前。

だが、このアメリカ大陸の原住民によって、歴史上もっとも「共産主義の理想」に近い社会を築いたのではないかと私は思う。

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