なぜ世界はここまで「崩壊」したのか…「アメリカ」と「ロシア」の戦いから見る「ヤバすぎる現代史」

なぜ世界各地で戦争や紛争は続くのか。世界経済はなぜ不安定なのか。

実は、現代という時代が今のようになったのは「アメリカとロシアの闘い=冷戦」が多大な影響を及ぼしている。もともと欧米とロシアとの闘いは、100年以上も前から続いており、地政学の大家・マッキンダーもこの闘いを「グレートゲーム」として考察していた。つまり、ここ100年の世界の歴史は「地政学」「冷戦」という2つのファクターから眺めると、とてもクリアに理解が広がるのである。

いまウクライナで起こっている戦争も、中東やアフガニスタンで紛争が絶えないのも、この「地政学」+「冷戦」の視点からみていくと、従来の新聞やテレビの報道とはまた違った側面が見えてくる。まさに、それこそが「THE TRUE HISTORY」なのだ。発売前から一部で大きな話題になっている、「地政学と冷戦で読み解く戦後世界史」から、とくに重要な記述をこれからご紹介していくことにする。

米英の傀儡だった? エリツィン

ゴルバチョフの改革はソ連を解体に導く結果となったが、本人は開かれた社会主義による新しい連邦国家を作っていると大真面目で信じていた。彼はなぜあのように無謀なスピードで改革を急いだのか。

ゴルバチョフを知る人によれば、彼は虚栄心の強い人間だったという。西欧の文化に憧れていた彼の誤りは、米英のおだてに乗り、自分の国を西欧のように作り替えようとしたことにあった。ロシアはユーラシアの多民族国家であり、西欧とは本質的に違うということを彼は理解しなかった。

ゴルバチョフは今でも西側では好意的に語られているが、それはソ連を崩壊させた功労者だからである。ロシアの愛国者から見れば彼はA級戦犯であり、評価されることはない。彼が2022年8月に亡くなった時、プーチン大統領は葬儀に出席しなかった。

ゴルバチョフが能力を超えることをやろうとしたドン・キホーテだったとするならば、エリツィンは米英の傀儡だった。華々しくロシア共和国を分離独立させてソ連を分解させたまではよかったが、彼は1年も経たないうちにヒーローの座から転落し、最後は哀れな傀儡の道をたどった。

ボリス・エリツィン/PHOTO by Gettyimages

エリツィンが進めた民営化により、旧ソ連の重要な事業が次々に彼と個人的に関係のある者たちの手に渡り、しかも彼らはアメリカやイギリスとつながっていた。彼らはロシアの国富を吸い上げて急速に巨大化し、オリガルヒと呼ばれる新興財閥に成長した。日本の財閥は企業だが、欧米のオリガルヒはすべてを個人が握っている。彼らは突出した億万長者であり、私兵を抱え、国の政治経済を支配している。ロシアのオリガルヒは事業を通じて国富を欧米に流出させ始めた。

またエリツィンはアメリカのウォール街が主導する市場経済への移行プログラムを実行し、ロシアをソ連時代の末期よりはるかにひどい状態に突き落とした。ハイパーインフレが襲い、労働者の蓄えが消失し、欧米から流入する製品が産業を破壊し、ロシアの大衆は貧困と飢餓に陥った。


ソ連崩壊後にロシアが味わった地獄

1991年の分離独立後、平均的なロシア国民の消費はわずか1年で40パーセントも減少した。1998年までにロシアの農業のおよそ80パーセントが破産し、7万ヵ所の工場の操業が止まり、トラクターの生産が88パーセント、洗濯機の生産は77パーセント、綿の布地の生産も77パーセント、テレビの生産は78パーセントも減少した。ロシアのGDP(国内総生産)は分離独立後の最初の数年間に50パーセントも低下し、通貨は紙切れ同然になった。

だがそれまで資本主義経済を一度も経験したことがなかったロシアの大衆は、なぜそうなるのかがわからなかった。共産主義から突然アメリカの新自由主義による自由市場システムに変更され、オリガルヒに金融、産業、経済を牛耳られたロシアは、壊滅的な打撃を受けて崩壊した。

世界銀行の統計によれば、ロシアでは1989年に200万人だった貧困レベル(1日の生活費が4ドル以下)で暮らす人の数が、1990年代半ばまでに37倍の7400万人に急増し、1996年の統計ではロシア人の4人に1人が「極貧」レベルの状態に陥った。アルコール中毒者が急増し、自殺率が2倍に跳ね上がり、暴力犯罪が増えて殺人が横行し、癌、心臓病、結核などの病気にかかる人の率が工業国で最大になった。男性の平均寿命は57歳にまで下がり、ロシア人全体の死亡率は60パーセントも上昇した。西側とロシアの人口統計学者は、1992年から2000年までの間にロシアでは500万〜600万人の超過死(それまでの統計にあてはまらない過剰な死)があったという意見で一致している。これはロシアの人口の3・4〜4パーセントに相当する。

だがエリツィンの時代のこの悲惨さは、西側にはほとんど伝わってこなかった。ニュースになったのは、最高会議の議員たちから批判されたエリツィンが軍を出動させ、戦車で議会ビルを砲撃して反対者たちを押さえつけたことくらいだ(この事件では数百人の死傷者を出した)。彼はカネと支配欲に目がくらんだ独裁者だった。

エリツィンは1989年9月にアメリカのNASA(航空宇宙局)を視察に訪れた時に、テキサス州ヒューストンの大型食料品店を訪れてアメリカの物質的な豊かさに衝撃を受けた。モスクワに戻る飛行機のなかで、彼は「いかにロシア国民の生活レベルが低いか、共産党がやってきたことがどれほど間違っていたかを知った」と側近に語っている。だがアメリカや西欧がそのように豊かになった理由こそ、共産主義が生まれた原因ではなかったのか。

PHOTO by Gettyimages

エリツィンは建築以外、政治も経済もヨーロッパの歴史も学んだことがなかったに違いない。ウラル地方の寒村の農家に生まれ育ち、ブレジネフの引きでモスクワの共産党中央委員会に移った彼は、ゴルバチョフに劣らず「ぽっと出の政治家」だった。そのうえ派手な政治パフォーマンスを好み、すぐキレる過激な自由化論者だったこの男が、米英情報機関のリクルートのターゲットになったとしても不思議はない。科学技術、軍事力、芸術、音楽、文学などで世界のトップレベルにあったロシアが、暴政を振るう途上国の独裁者並みの1人の男のために崩壊したという事実には驚くほかはない。

1996年の大統領選挙では、国民の支持率がほぼゼロ近くにまで下がったエリツィンを勝たせるためにオリガルヒたちが全面的に動き、アメリカのクリントン政権が選挙キャンペーンのプロやスタッフを送り込んだ。エリツィンが当選して2期目が始まるとIMFが400億ドルものカネを貸し付けたが、その多くは彼の政権の腐敗の中に消えて行った。

そして月日とともに、エリツィンは鬱屈した日々を送るようになっていく。国の崩壊を目の当たりにして自責の念もわいたのだろうか。もともと大酒飲みで奇行が知られた彼は酒の量が増え、アルコール依存症も悪化した。議会のたび重なる大統領弾劾の動きに加え、右派からも左派からも激しく突き上げられてストレスも増したのだろう。飲酒が原因で健康が衰え、持病の心臓病が悪化したエリツィンは、1999年末、ようやく大統領を辞任した。

後継者に指名されたのはウラジーミル・プーチンだった。

ウラジーミル・プーチン/PHOTO by Gettyimages

金儲けに邁進したクリントン時代のアメリカ

一方アメリカでは1992年の大統領選挙で番狂わせがあり、ブッシュ(父)が敗れてビル・クリントンが当選した。クリントン時代のアメリカは、ブッシュの時代のような地政学的な世界支配にではなく、金儲けに邁進した。もちろんそれもアメリカが単独の超大国となったからこそできたことだが、新自由主義自由市場がますます唱道され、ハイテク時代の訪れも相まってファンドが巨大化し、アメリカの大手金融機関による世界の金融支配が進んだ。

日本もそのあおりを受けて1990年代後半になると金融機関の統合・再編成が進み、大手証券会社が廃業するなどの大変動が起きた。ドルはウォール街が富を増すための武器として使われ、南米、東南アジア、ロシアなどでアメリカの金融機関が大規模な空売りを仕掛けた結果、それらの国の通貨が暴落して金融危機が発生した。

その反面、アメリカの軍需産業はクリントン時代に冷や飯を食わされ、兵器メーカーの受注はレーガン時代の約半分にまで落ち込んだ。軍用機やミサイルを開発していた技術者の多くが仕事を失い、自宅の裏でコーヒーのテイクアウトの店を営んでいるなどという記事が新聞に載るようになった。イギリスでもMI5MI6が縮小され、諜報員の仕事がなくなったと言われた。この時代に米英とも軍産の再編が進み、中小兵器メーカーが大手に吸収合併され、いくつかの巨大軍需企業が誕生した。


なぜ世界はここまで「崩壊」したのか…「アメリカ」と「ロシア」の戦いから見る「ヤバすぎる現代史」

「21世紀は戦争の世紀になる」

ここで特筆すべきは、クリントン時代の末期から次のブッシュ(子)政権にかけてアメリカは東欧諸国を次々にNATOに加えていったということだ。アメリカの戦闘機メーカーは、そうなることを見越して、クリントン時代の中期に戦闘機やミサイルを東欧諸国に売り込んだ。

東欧の国がNATOに加盟すれば、それまで所有していた旧ソ連製の兵器を徐々に他のNATO加盟国と同じアメリカの兵器システムに入れ替えていく必要がある。そのためNATOの東方拡大には軍産ビジネスが相乗りしていた。アメリカの戦闘機メーカーはルーマニア、ポーランド、ハンガリー、チェコなどで頻繁にセミナーを開き、CEOや重役たちが自ら乗り込んで売り込みを行った。

またクリントン時代にアメリカは石油や天然ガスが豊富な中央アジア諸国に進出し、石油メジャー(国際石油資本)がカザフスタンを中心にパイプラインの建設を開始した。これもソ連が消滅してはじめて可能になったことだった。いよいよマッキンダーの言うところの「世界島」(ユーラシア)の中心部への進出が始まったのだ。

2001年にブッシュ(子)政権が誕生すると、アメリカは再び軍事的な世界支配への道を進み始める。ブッシュ(子)は大統領に就任してまもなく、「21世紀は戦争の世紀になる」と宣言した。この時代になると兵器のハイテク化が進み、軍産がシリコンバレーのベンチャー企業を次々と吸収して、安全保障ビジネスはより広い領域をカバーするようになった。

ジョージ・W・ブッシュ(子)/PHOTO by Gettyimages

アメリカ一極支配の時代になったと信じたブッシュ(子)政権は、2001年に起きた同時多発テロをきっかけに「テロとの戦争」を始めてアフガニスタンに出兵し、クリントン時代に冷や飯を食わされていた安全保障関係の企業に青天井の天文学的な額の予算が与えられた。ブッシュ(子)は「テロリストだけでなく、テロリストをかくまう国も攻撃する」と宣言し、「あなたの国は我々とともにいるのか、それとも彼らとともにいるのか」として「味方でないなら敵」という中間を認めない二元論で踏み絵を迫った。ハイテクを駆使した監視システムが世界中で大ビジネスとなり、怪しげな民間軍事会社が急成長したのもこの時期だ。

だがブッシュ(子)政権は2003年にイラク戦争を開始したが、まもなくイラクでもアフガニスタンでも目算が外れて壁に突き当たる。イラクでは皮肉にもブッシュ(子)が勝利宣言をした直後から米軍へのゲリラ攻撃が急増し、米兵の死者も増え始めた。2005年頃になると、イラクはベトナムの再現になるとまで言われるようになった。


冷戦が終わり、世界で左翼政権が後退した

日本では1980年代に西欧諸国と同じく左翼が後退を始め、1990年頃から自民党を出た政治家による新党ができては消え、自民党政権も総理大臣が短期間で次々と交代するという政治の混乱の季節が到来した。これも冷戦の終了によって世界各地に生じた症候群の一つだ。アメリカという親亀が体を揺すれば、背中に乗っている子亀はみな振り落とされる。

南米の親米右翼独裁政権や、韓国や台湾の軍事政権が1980年代末に次々と崩壊していったのも、冷戦の終了と関係していた。共産主義が衰退すれば、防波堤として機能していたそれらの独裁政権や軍事政権は必要なくなる。それらの国々に民主的な政権が誕生したのは、おもにアメリカの金融界の意向だった。南米の多くの国は独裁政権時代にアメリカの銀行から多額の融資を受けて国家インフラを建設していたため、1990年代に金融危機が訪れると次々と財政が破綻し、債務不能に陥る国が連鎖反応的に広がっていった。

西ヨーロッパでは1993年にEUが誕生し、2002年には共通の通貨であるユーロの流通が始まった。だがEUは国力に大きな差がある複数の国家を人為的に束ねたものであり、とくにすべての加盟国が使用する共通の通貨を欧州中央銀行が発行する金融システムは、はじめから矛盾を内包していた。EUを確立してNATOとEUを西欧の両輪にしようという、イギリスとアメリカの一部の勢力が進めてきた計画は次第にトラブルが表面化し、イギリスは2020年にEUを脱退したが、それで国が2つに分裂してしまった。イタリアも何度か脱退を試みたが引き戻された。

統一後のドイツは経済成長を続け、2000年代にEUの事実上の領袖となったが、ロシアから安い石油やガスを輸入して産業を発展させ、製品を中国に輸出するというビジネスモデルは、ウクライナ紛争が始まった直後の2022年3月に失速した。アメリカからロシア制裁を強制されて石油やガスが輸入できなくなったドイツの産業や経済は急速に衰えつつあり、中国との貿易もアメリカから強い圧力を受けている。

強国としてのし上がろうとするたびにアメリカにつぶされるというドイツのパターンがまたくり返されているように見える。第一次世界大戦・第二次世界大戦に続き、ドイツは3度目の敗戦を迎える可能性があり、ドイツが弱体化すればEUも危うくなる。

アメリカとイギリスの関係では、結びつきと対立がともに大きくなった。本書でも「米英」という表現をよく用いているように、アメリカとイギリスは同じアングロサクソンの国として利害や信条が共通している部分も大きいが、じつは根本的な対立もまた根が深いのだ。

「ウクライナ紛争」が発生した「本当のワケ」――ロシアを激怒させ続けてきた欧米 地政学と冷戦の戦後世界史 後編

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